「私を守れ!」と部下達に言う姿は、今では恒常化していますね。
どこの「偉人」が、そんな情けない言葉を吐くでしょう。
昭和61年終了。
(ここから)---------------------------------------------
1986(昭和61)年(2)
10/??
【学会】SGI会長、中国政府より『平和友好杯』を受賞。
10/17
【学会】聖教新聞、『寸鉄』
『厚生省が「健康マップ」発表、〃宗派別に不幸の統計調査を〃との恩師の言を ! !と』
10/29
【学会】本部職員の小田仁 伯、反池田の創価学園卒業生を、池田大作とゲリラ的に面会させる。
◇
昭和61年10月29日、その日は雲ひとつない快晴であった。「このような日には、神宮外苑の木漏れ日の中を散策すると、気分が最高だろうな」などと思いつつ、筆者は、N青年と共に創価文化会館の案内所の受付に着いた。
受付には、顔見知りの本部の警備職員達が、来訪者2?3名の応対をしていた。
筆者は太田昭宏青年部長への面会を申し入れた。用件は、太田氏と面識のあるN青年を伴(ともな)っての面談であったが、本当の目的は、この案内所で池田大作を捕まえ、N青年と池田を引き合わす事にあった。
太田青年部長は、当時、問題視されていたN青年との面会を、快く了承し、しばらくの間、案内所で待つよう返答してきた。
計画どおりである。これで池田大作と遭遇する第一関門は突破できたことになる。
それにしても、太田氏の人の良さ(悪く言えば脇の甘さ)を、不憫(ふびん)に思わずにはおれなかった。
というのは、太田氏は、この面会の数ヶ月前、N青年の件で池田大作の逆鱗(げきりん)に触れたばかりであり、そのため、学会首脳達も太田氏に批判を浴びせていたのである。
太田氏が池田を怒らせてしまった理由であるが、N青年の父親は元都議会の実力者、母親は幾たびも池田大作のセクハラに耐えてきた経緯を持つ、いわば池田大作のウラのウラまで熟知した「池田打倒」の急先鋒であった。あろうことか太田青年部長は、このN青年の人物評を、本部組織センターにおいて秋谷(現会長)や青年部幹部のいる前で、大声で言ってしまったのである。「小多仁さん、N君と会ってきましたよ!なかなかよい青年ですね!皆が心配するような人物ではないですよ」
太田氏にしてみれば、まだ若いN青年を色メガネで見るのは好ましくないとの思いで、組織センター幹部に言いたかったのであろう。
これが太田氏の創価学会幹部としての甘さなのである。その結果として、池田大作の怒りを買い、そのあとすぐに聖教新聞社地下の閑職に追われ、また落選確実な東京8区(文京・中央・台東)の衆議院候補になり、悲哀を味わうことになる。
今、太田昭宏氏は公明党の次代を担(にな)う人材としてクローズアップされているが、上記のような大らかな人柄のため、首脳の中には将来を危倶(きぐ)する声もある。
筆者は、太田氏の常識的な物事の捉(とら)え方や優しい側面が、変節を繰り返す公明党のスタンスとは、似つかわしくないと思っている。むしろ、太田氏は将来、公明党解党へのリーダーシップを発揮するかもしれない、と逆説的に期待したい。
ともあれ、この日、N君を学会本部に連れて行った最大の理由は、池田大作と直接会って、率直に意見を述べ、懇談する機会を造ることにあった。
「池田大作と、どうしても会いたい」とのN君の強い希望があり、御両親の長年の願望でもあったからである。
そもそも「池田大作と会う」ということは、不可能に近い、といわれていた。
小心者の池田大作は〃おれを守れ〃とばかり、過剰なまでの誓備陣を配置する。ゆえに、その厳重な池田大作の包囲網をかいくぐって、面会したり拘束したりする事は、はなはだ難しいのである。
しかし、私達は、この日のために着々と準備を重ね、池田の行動範囲を絞り込み、日程を把握(はあく)することに成功したのである。
案内所の隅で、私達は池田大作を、今や遅しと待っていた。
通常、池田は黒い最高級車に乗ったまま、案内所の脇を猛スピードで通過して、建物奥の本部正面玄関に横付けする。
この時がチャンスであった。その機を逃さず、N君が池田の車を追って、その正面玄関で捕まえる、という計画であった。
はたして池田大作は、案内所前で乗用車から降り、来客を伴って本部の中へゆっくりと入ってきた。計面どおりである。
池田は、来客に何かの説明でもするように、立ち止まって話をしている。
池田は、慇懃(いんぎん)にして尊大な態度で来客と接しており、すこぶるご機嫌の様子であった。
筆者は、頃あいを見て「今ですよ!」とN君の背中を押した。
N君は「センセー、Nです!センセー、Nです!」と声を張り上げ、「センセー!お話があります」と、駆け出しながら池田に迫っていった。
この一瞬の出来事に、池田の警護隊をはじめ第一庶務の職員達は、なす術もなく見守るばかりであった。まるで時間が止まったかのようである。
池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(※池田はN君とは創価学園の校友会で会っている)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎(だっと)のように逃げ出したのである。驚いたことに池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走(とんそう)した。その光景は、大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽(こっけい)な喜劇役者のように写った。
池田は、よほど気が動転したのか、いつも利用している本部正面玄関と文化会館来客用玄関との区別ができず、文化会館に間違って飛びこみ、あわてて、そこから飛び出
してきた。そのため、池田を追ってきたN君との距離がなくなった。 N君は「センセー!」「センセー!」と追いすがる。その蒋、池田は「わかってる」「わかってる」「あとで、あとでな!」というセリフを発しながら、奥の正面玄関に消えていってしまった。
筆者は、この歴史的(?)な七来事の一事始終を冷静に観察していた。
一方、この場に居合わせた他の人達は、どのような様子であったか。
まず、池田に置き去りにされた来賓の、ひきつった顔が印象的であった(池田が車を降りて案内するぐらいの大事な人物と思われる)。また、池田を警護するため、日常的に訓練を重ねてきた池田警護隊の、茫然自失の態。案内所職員の金縛り状態――。どれ一つを取っても、池田大作にとっては、腹わたが煮え繰り返る思いであっただろう。
私達の本当の期待は、N君の熱情を池田が受け止め、懇談が実現する、というところにあった。これは池田が逃げ出したため、失敗に終わったが、池田大作の真の姿を知ることにより、このような臆病な男を「稀有(けう)の指導者」と錯覚していたことが、私もN君も、よく分かったのである。
この日、本部全体会議が行なわれたが、出席を予定していた池田大作は、動揺のあまり、職員の前に出ることさえできず、会議を欠席してしまった。
(以下略)
(小田仁 伯『〃イケダ体験〃雑感』慧妙2003年12月1日号)
12/04
公明党第24回党大会。
矢野絢也が委員長、大久保直彦が書記長になる。
キャッチフレーズは「フレッシュ・オープン・エキサイティング」
◇
竹入委員長あいさつ 大会冒頭にあいさつした竹入委員長は、政局の行方を展望しながら、
(1)ダブル選挙は公明党のウィーク・ポイントではなくなった、
(2)307議席の自民党が自壊する可能性は薄く、政局の流動化はつぎの総選挙を待たざるを得ない、
(3)当面主体的力量の増大に重点を置かざるを得ない、
との認識を示した。
そして、党勢が最高水準にあるこの機会に後進に道を譲って党内の活性化と世代交代を推進する決意を表明した。また、後任の委員長としては、矢野書記長が最適任者と確信するとし、同書記長を中心とした新執行部選出への協力を要請した。
矢野新委員長の就任あいさつ
新役員を代表してあいさつに立った矢野新委員長は、「全身全霊で職を全うしたい。力のかぎり党の最前線で戦い、国民のなかに飛び込む」との決意を表明し、新基本方針を「フレッシュ・オープン・エキサイティング」な「フレッシュ公明党」とすることを明示。
(1)談論風発の党風をつくる、
(2)党の政策・路線、意思決定の経過を国民にオープンにする、
などを強調するとともに、連合問題については、
(1)戦略次元で連合問題を検討することは政党の責任、
(2)当面の戦術的なとりくみは、自民党の単独支配を打破することにある、
(3)したがって、自民党の動静に関心を持ち、「スキがあればスキを撃ち、虚があれば撃ち、変に臨み、乱に応じる」
との考えを明らかにした。また、労働戦線統一の問題についても、「来年11月に予定されている労働界の結集、とく に全民労協の動きには、労働再編成への大きなうねりがあり、政界にも大きなインパクトを与えることが必至」との見通しを示した。
役員
第24回全国大会で選出・承認された本部役員および大会終了後開かれた中央執行委員会で決定した副書記長、各局長の氏名はつぎのとおり。
▽中央執行委員長・矢野絢也(新)、▽中央執行副委員長・石田幸四郎(筆頭、新)、浅井美幸、多田省吾、伏木和雄(新)、
▽書記長・大久保直彦(新)、▽副書記長・矢追秀彦(筆頭、新)、塩出啓典(新)、二見伸明(新)、池田克也(新)、神崎武也(新)、
▽総務局長・笠間肇、組織局長・伏木和雄(兼)、
▽議会局長・坂井弘一(新)、▽宣伝局長・田端正広(新)、▽広報局長・矢追秀彦(兼)、▽機関紙局長・土師進、▽青年局長・木内良明(新)、▽婦人局長・刈田貞子(新)、▽国際局長・神崎武法(新)、▽労働局長・権藤恒夫(新)、▽文化局長・二見伸明、▽教育局長・日笠勝之(新)、▽中小企業局長・森木晃司(新)、▽農林水産局長・武田一夫(新)、▽国民生活局長・渡部通子(新)、▽財務委員長・石田幸四郎(兼)、▽組織対策委員長・三木忠雄、▽国民運動本部長・草野威(新)、▽公害対策本部長・遠藤和良(新)、▽選対事務局長・小原敏男(新)、
▽国会対策委員長・市川雄一(新)、▽政策審議会長・坂口力(新)、▽選挙対策委員長・長田武士(新)。
<中央統制委員会>
▽委員長・鈴切康雄(新)、▽副委員長・貝沼次郎(新)、▽委員・有島重武(新)、中野鉄造(新)、吉浦忠治(新)。
<会計監査委員会>
▽委員・中野明(新)、新井彬之(新)、馬場富(新)。
<最高顧問>▽竹入義勝。
(法政大学大原社会問題研究所:編著『日本労働年鑑第57集1987年版』
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/57/rn1987-437.html)
12/14
【学会】パナマのノリエガ将軍の「私は名誉会長を人生における哲学上の師として尊敬している」との言葉を聖教新聞に掲載。
(ここまで)---------------------------------------------
どこの「偉人」が、そんな情けない言葉を吐くでしょう。
昭和61年終了。
(ここから)---------------------------------------------
1986(昭和61)年(2)
10/??
【学会】SGI会長、中国政府より『平和友好杯』を受賞。
10/17
【学会】聖教新聞、『寸鉄』
『厚生省が「健康マップ」発表、〃宗派別に不幸の統計調査を〃との恩師の言を ! !と』
10/29
【学会】本部職員の小田仁 伯、反池田の創価学園卒業生を、池田大作とゲリラ的に面会させる。
◇
昭和61年10月29日、その日は雲ひとつない快晴であった。「このような日には、神宮外苑の木漏れ日の中を散策すると、気分が最高だろうな」などと思いつつ、筆者は、N青年と共に創価文化会館の案内所の受付に着いた。
受付には、顔見知りの本部の警備職員達が、来訪者2?3名の応対をしていた。
筆者は太田昭宏青年部長への面会を申し入れた。用件は、太田氏と面識のあるN青年を伴(ともな)っての面談であったが、本当の目的は、この案内所で池田大作を捕まえ、N青年と池田を引き合わす事にあった。
太田青年部長は、当時、問題視されていたN青年との面会を、快く了承し、しばらくの間、案内所で待つよう返答してきた。
計画どおりである。これで池田大作と遭遇する第一関門は突破できたことになる。
それにしても、太田氏の人の良さ(悪く言えば脇の甘さ)を、不憫(ふびん)に思わずにはおれなかった。
というのは、太田氏は、この面会の数ヶ月前、N青年の件で池田大作の逆鱗(げきりん)に触れたばかりであり、そのため、学会首脳達も太田氏に批判を浴びせていたのである。
太田氏が池田を怒らせてしまった理由であるが、N青年の父親は元都議会の実力者、母親は幾たびも池田大作のセクハラに耐えてきた経緯を持つ、いわば池田大作のウラのウラまで熟知した「池田打倒」の急先鋒であった。あろうことか太田青年部長は、このN青年の人物評を、本部組織センターにおいて秋谷(現会長)や青年部幹部のいる前で、大声で言ってしまったのである。「小多仁さん、N君と会ってきましたよ!なかなかよい青年ですね!皆が心配するような人物ではないですよ」
太田氏にしてみれば、まだ若いN青年を色メガネで見るのは好ましくないとの思いで、組織センター幹部に言いたかったのであろう。
これが太田氏の創価学会幹部としての甘さなのである。その結果として、池田大作の怒りを買い、そのあとすぐに聖教新聞社地下の閑職に追われ、また落選確実な東京8区(文京・中央・台東)の衆議院候補になり、悲哀を味わうことになる。
今、太田昭宏氏は公明党の次代を担(にな)う人材としてクローズアップされているが、上記のような大らかな人柄のため、首脳の中には将来を危倶(きぐ)する声もある。
筆者は、太田氏の常識的な物事の捉(とら)え方や優しい側面が、変節を繰り返す公明党のスタンスとは、似つかわしくないと思っている。むしろ、太田氏は将来、公明党解党へのリーダーシップを発揮するかもしれない、と逆説的に期待したい。
ともあれ、この日、N君を学会本部に連れて行った最大の理由は、池田大作と直接会って、率直に意見を述べ、懇談する機会を造ることにあった。
「池田大作と、どうしても会いたい」とのN君の強い希望があり、御両親の長年の願望でもあったからである。
そもそも「池田大作と会う」ということは、不可能に近い、といわれていた。
小心者の池田大作は〃おれを守れ〃とばかり、過剰なまでの誓備陣を配置する。ゆえに、その厳重な池田大作の包囲網をかいくぐって、面会したり拘束したりする事は、はなはだ難しいのである。
しかし、私達は、この日のために着々と準備を重ね、池田の行動範囲を絞り込み、日程を把握(はあく)することに成功したのである。
案内所の隅で、私達は池田大作を、今や遅しと待っていた。
通常、池田は黒い最高級車に乗ったまま、案内所の脇を猛スピードで通過して、建物奥の本部正面玄関に横付けする。
この時がチャンスであった。その機を逃さず、N君が池田の車を追って、その正面玄関で捕まえる、という計画であった。
はたして池田大作は、案内所前で乗用車から降り、来客を伴って本部の中へゆっくりと入ってきた。計面どおりである。
池田は、来客に何かの説明でもするように、立ち止まって話をしている。
池田は、慇懃(いんぎん)にして尊大な態度で来客と接しており、すこぶるご機嫌の様子であった。
筆者は、頃あいを見て「今ですよ!」とN君の背中を押した。
N君は「センセー、Nです!センセー、Nです!」と声を張り上げ、「センセー!お話があります」と、駆け出しながら池田に迫っていった。
この一瞬の出来事に、池田の警護隊をはじめ第一庶務の職員達は、なす術もなく見守るばかりであった。まるで時間が止まったかのようである。
池田大作はN君の行動を見て、身構えながらも余裕の態度で「おう!君か!」(※池田はN君とは創価学園の校友会で会っている)と言いながらも、後ずさりし、突然、脱兎(だっと)のように逃げ出したのである。驚いたことに池田は、大事な来客の存在も忘れ、ただ、ひたすらN君に背を向け遁走(とんそう)した。その光景は、大指導者を装う威厳など全くなく、むしろ滑稽(こっけい)な喜劇役者のように写った。
池田は、よほど気が動転したのか、いつも利用している本部正面玄関と文化会館来客用玄関との区別ができず、文化会館に間違って飛びこみ、あわてて、そこから飛び出
してきた。そのため、池田を追ってきたN君との距離がなくなった。 N君は「センセー!」「センセー!」と追いすがる。その蒋、池田は「わかってる」「わかってる」「あとで、あとでな!」というセリフを発しながら、奥の正面玄関に消えていってしまった。
筆者は、この歴史的(?)な七来事の一事始終を冷静に観察していた。
一方、この場に居合わせた他の人達は、どのような様子であったか。
まず、池田に置き去りにされた来賓の、ひきつった顔が印象的であった(池田が車を降りて案内するぐらいの大事な人物と思われる)。また、池田を警護するため、日常的に訓練を重ねてきた池田警護隊の、茫然自失の態。案内所職員の金縛り状態――。どれ一つを取っても、池田大作にとっては、腹わたが煮え繰り返る思いであっただろう。
私達の本当の期待は、N君の熱情を池田が受け止め、懇談が実現する、というところにあった。これは池田が逃げ出したため、失敗に終わったが、池田大作の真の姿を知ることにより、このような臆病な男を「稀有(けう)の指導者」と錯覚していたことが、私もN君も、よく分かったのである。
この日、本部全体会議が行なわれたが、出席を予定していた池田大作は、動揺のあまり、職員の前に出ることさえできず、会議を欠席してしまった。
(以下略)
(小田仁 伯『〃イケダ体験〃雑感』慧妙2003年12月1日号)
12/04
公明党第24回党大会。
矢野絢也が委員長、大久保直彦が書記長になる。
キャッチフレーズは「フレッシュ・オープン・エキサイティング」
◇
竹入委員長あいさつ 大会冒頭にあいさつした竹入委員長は、政局の行方を展望しながら、
(1)ダブル選挙は公明党のウィーク・ポイントではなくなった、
(2)307議席の自民党が自壊する可能性は薄く、政局の流動化はつぎの総選挙を待たざるを得ない、
(3)当面主体的力量の増大に重点を置かざるを得ない、
との認識を示した。
そして、党勢が最高水準にあるこの機会に後進に道を譲って党内の活性化と世代交代を推進する決意を表明した。また、後任の委員長としては、矢野書記長が最適任者と確信するとし、同書記長を中心とした新執行部選出への協力を要請した。
矢野新委員長の就任あいさつ
新役員を代表してあいさつに立った矢野新委員長は、「全身全霊で職を全うしたい。力のかぎり党の最前線で戦い、国民のなかに飛び込む」との決意を表明し、新基本方針を「フレッシュ・オープン・エキサイティング」な「フレッシュ公明党」とすることを明示。
(1)談論風発の党風をつくる、
(2)党の政策・路線、意思決定の経過を国民にオープンにする、
などを強調するとともに、連合問題については、
(1)戦略次元で連合問題を検討することは政党の責任、
(2)当面の戦術的なとりくみは、自民党の単独支配を打破することにある、
(3)したがって、自民党の動静に関心を持ち、「スキがあればスキを撃ち、虚があれば撃ち、変に臨み、乱に応じる」
との考えを明らかにした。また、労働戦線統一の問題についても、「来年11月に予定されている労働界の結集、とく に全民労協の動きには、労働再編成への大きなうねりがあり、政界にも大きなインパクトを与えることが必至」との見通しを示した。
役員
第24回全国大会で選出・承認された本部役員および大会終了後開かれた中央執行委員会で決定した副書記長、各局長の氏名はつぎのとおり。
▽中央執行委員長・矢野絢也(新)、▽中央執行副委員長・石田幸四郎(筆頭、新)、浅井美幸、多田省吾、伏木和雄(新)、
▽書記長・大久保直彦(新)、▽副書記長・矢追秀彦(筆頭、新)、塩出啓典(新)、二見伸明(新)、池田克也(新)、神崎武也(新)、
▽総務局長・笠間肇、組織局長・伏木和雄(兼)、
▽議会局長・坂井弘一(新)、▽宣伝局長・田端正広(新)、▽広報局長・矢追秀彦(兼)、▽機関紙局長・土師進、▽青年局長・木内良明(新)、▽婦人局長・刈田貞子(新)、▽国際局長・神崎武法(新)、▽労働局長・権藤恒夫(新)、▽文化局長・二見伸明、▽教育局長・日笠勝之(新)、▽中小企業局長・森木晃司(新)、▽農林水産局長・武田一夫(新)、▽国民生活局長・渡部通子(新)、▽財務委員長・石田幸四郎(兼)、▽組織対策委員長・三木忠雄、▽国民運動本部長・草野威(新)、▽公害対策本部長・遠藤和良(新)、▽選対事務局長・小原敏男(新)、
▽国会対策委員長・市川雄一(新)、▽政策審議会長・坂口力(新)、▽選挙対策委員長・長田武士(新)。
<中央統制委員会>
▽委員長・鈴切康雄(新)、▽副委員長・貝沼次郎(新)、▽委員・有島重武(新)、中野鉄造(新)、吉浦忠治(新)。
<会計監査委員会>
▽委員・中野明(新)、新井彬之(新)、馬場富(新)。
<最高顧問>▽竹入義勝。
(法政大学大原社会問題研究所:編著『日本労働年鑑第57集1987年版』
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/57/rn1987-437.html)
12/14
【学会】パナマのノリエガ将軍の「私は名誉会長を人生における哲学上の師として尊敬している」との言葉を聖教新聞に掲載。
(ここまで)---------------------------------------------