価値[再]創造

創価学会における素晴しき体験と
めぐり合った会員や幹部との思い出を基に
価値観を再構築していきます

学会の歴史(昭和63年) (7)

盗聴の組織関与が認定されても、学会から見れば法難なのだそうです。
その性格、人間革命した方がいいのでは?

昭和63年終了。いよいよ平成です。平成元年を最後にしたいと思います。

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1988(昭和63)年(7)

12/28
竹岡容疑者の経歴を追っていくと、バリバリの創価学会員だったことが分かる。
 1948年12月、広島県生まれ。中央大学法学部を’71年3月に卒業した後、同年4月に新生会研究所に入社する。その後、’74年に創価学会系の出版社『第三文明』に入社。’76年創価学会本部総合センター(学会本部職員)に転出し組織業務の担当となった。
 その後、青年部副男子部長や創価班委員長(創価班はかつての輸送班。静岡県・富士宮市の総本山・大石寺に参拝する信者の輸送などを務めた男子部の組織)を歴任した。
 だが、創価班委員長時代の評判はあまり芳しくない。
「信者からの評判は良くなかった。威張ってるし、傲慢で鼻持ちならないという声が多かったのです。そんな大多数の批判が上がっても、彼の地位は万全でした。なぜかは、後で分かりましたが…」(元会員)

盗聴行為最中に幹部に出世
この元会員が後になって知ったというのは、犯行(’70年)から10年目の’80年6月に明らかになった、日本共産党・宮本顕治委員長宅への盗聴器事件だ。犯行に及んだ首謀者は、山崎正友・創価学会顧間弁護士(当時)をリーダーとする、いわゆる創価学会の〃山崎軍団〃だった。
 盗聴実行グループは、宮本宅電話盗聴の拠点としてマンションを借りたが、この中の有力メンバーの1人が竹岡容疑者だったのである。
 当時、創価学会の「言論出版妨害事件」に対する共産党の追及は激しく、創価学会側の防戦の一環として仕掛けられた、というのが今日では定説となっている。
 ただし、創価学会の盗聴はこれだけではなかった。その後、「妙信講」はじめ「立正佼成会」など、反創価学会教団のスパイ工作など6件に及ぶ盗聴も実行している。
 共産党は宮本委員長名で、創価学会の北条浩会長(当時)や山崎元顧問弁護士とその配下の竹岡容疑者、広野輝夫容疑者らのグループを被告とし、損害賠償請求訴訟を起こした。その結果、東京地裁(’85年4月)に続いて東京高裁(’88年4月)は、いずれも創価学会の組織的関与を認める判決を下している。
「創価学会側は最高裁に上告したものの、裏で取り下げて損害賠償金を支払いました。しかし、謝罪は一切していません」(共産党関係者)
 この時の判決の中で、竹岡容疑者は深夜、電柱に登って電話線端子に盗聴器を取り付けるなど実行部隊の中心だったと指摘されている。だが、驚いたことに、「’78年に、創価班全国委員長、翌年には青年部副男子部長になっています」(創価学会広報)と、盗聴行為の最中に幹部に抜擢され、出世している。
「平和と人権を強調し、社会の模範となるべき大宗教法人が、電話盗聴で裁判に訴えられ、しかも、その事実が認定されたケースとしては、わが国の歴史上たった1件しかありません。それがこの事件です。しかも、被害者は公党の最高幹部。政治活動の自由を陰で侵害するという重大事件です。竹岡は、さすがに盗聴発覚後は表面的には退いています。普通なら除名ですよ。長い間幹部であり続けられたのは、社会的には犯罪者でも内部では功労者だからです。とくに(創価学会にとって)仏敵である山崎元顧問弁護士を追い落とした功績は大きいようです」(創価学会に詳しいジャーナリスト)
(週刊実話2004年3月18日号)
※広野輝夫・竹岡誠治は、この時点で第三文明社に勤務している。

12/30
『赤旗』、松井繁明弁護士の『創価学会〃最後の謀略〃』を掲載。

(?)



『それはともかく、オウムはその太田(※太田龍)がコラムを連載していた月刊誌に接触したのである。それは、現在では廃刊になっている『新雑誌X』(後に『新雑誌21』と改題)という雑誌だった。
 この雑誌は70年当時、学生運動の盛んな頃にもてはやされた月刊誌『現代の眼』の元編集長だった丸山実(故人)が独立して出していたものであった。丸山によれば『新雑誌X』の編集部を訪れたのは、オウム事件で名前の知られた弁護士の青山吉伸や新実智光ら数人であり、時は昭和63(1988)年頃のことである。
(中略)
購入していったバックナンバーは、太田のコラムが掲載されている号すべてと、ユダヤ・フリーメーソンなど陰謀論の記事が掲載された号などで数10冊あったという。
 丸山によれぱその後、オウムは何度か電話してきたものの、それ以上の接触はしてこなかったという。
 一方、そのころの太田龍は、自分のかわりに妻を入会させていた創価学会から離れ、玉井礼一郎なる人物が主催する反創価学会系のミニ教団に近づいていたようである。
 当時の太田は自分の発行しているミニコミ誌『コンパッション』や『地球維新』、そして前述の『新雑誌X』などで、盛んにアメリカによる国家的陰謀として、BC兵器、とくに毒ガスによる攻撃について繰り返し繰り返し言及していた。
(中略)
この時期の太田はオウムだけではなく、いろいろなミニ宗教・オカルト団体・カルト系団体と同時並行して関係していたともいう。
(中略)
たとえば、オウムによる他の宗教法人買収の動きが話題になったとき、テレビなどで盛んに自分が依頼されたような語をしていた宗教プローカー・中杉弘の平和神軍。
 富士山が大爆発するなどという予言をして、見事にはずした小島(万師)露観の古代帝国軍Z(ザイン)。
 前出の玉井礼一郎の妙法蓮華教(最近はブラジルの奥地で地底王国シャンバラの秘宝を手に入れたと主張している)。
 詐欺まがいの反創価学会活動で女性達に金銭被害を与えたミニコミ誌『福田』の南条白山こと渡辺隆(太田の制定した「第一回太田龍賞」を創価学会・池田大作批判によって受賞するが、のちに太田から「創価学会のスパイ」呼ばわりをされケンカ別れする。現在は消息不明)。
 渡辺と組んで反創価学会活動をし、渡辺に被害を受けた女性らにセクハラをした日蓮正宗僧侶・高橋公純(高橋はその後日蓮正宗の僧侶をやめて、韓国・台湾などで独自に信者をつくっている。とくに韓国では、日本の戦争責任について袈裟衣すがたで土下座して詫びている模様が、何度もテレビで報道されている。また高橋は日蓮正宗時代から頻繁に韓国や台湾に渡航しているが、日蓮正宗内部では外国為替法違反の疑惑も噂されているという)。
 元生長の家本部講師で、その後GLAというミニ教団に移り、さらに分派独立した園頭広周(故人)がつくった国際正法協会なる宗教団体(園頭が病気で倒れたときに、教団の主導権争いで暗躍したのが、元創価学会顧問弁護士の山崎正友と亡くなった内藤国夫であったことは関係者の間では有名である)。』
(岩尾啓一「オウム真理教の凶暴化に影響を与えたのは革命思想家・太田龍だった!」『噂ウラの裏』2001年3月号)

(?)
公明党の渡部一郎衆院議員、『国連支援交流協会』(FSUN)を設立。

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学会の歴史(昭和63年) (6)

宮本邸電話盗聴事件で、学会の組織的関与が認定されます。
最近でも、敵対組織の通話記録を盗んで組織関与が認められました。
この組織、全く進歩していないようです。

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1988(昭和63)年(6)

12/27
【学会】宮本邸電話盗聴事件裁判の最高裁上告を取り下げる。これにより学会の組織的関与を認定した第二審(東京高裁)判決が確定。

(?)
共産党側弁護団、最高裁に問い合わせて、すべての上告が取り下げられていることを知る。

12/28
【学会】聖教新聞社会面記事に『〃宮本邸盗聴事件〃裁判北條前会長の遺族ら上告取り下げ』の見出しで小さく報道。(公明新聞は一切報道せず。)
「〃宮本邸盗聴事件〃裁判の控訴審判決(東京高裁第4民事部)に対し最高裁に上告していた広野輝夫・竹岡誠治両氏が上告を取り下げたことにともない、北條前会長の遺族らも、このほど上告を取り下げた。これにより、この裁判は一切、終了したことになる。

松井一彦弁護士の話
本件は、元弁護士山崎正友が部下を使って犯した行為であり、故・北條前会長はもちろん、創価学会も何ら関与していないものである。一、二審は全くの事実誤認であって到底、承服できない」
以下、記事は『松井一彦弁護士の話』として、山崎正友の恐喝事件が控訴棄却となり、この事件の一審判決が支持されて、山崎の謀略性が一段と明らかとなった、このことを契機として広野、竹岡両氏が上告を取り下げたので、北条氏の遺族もそれに従った、反論すべき北条本人も死亡していて、これ以上裁判を続け、関係者に迷惑をかけたくないという強い希望が北条の遺族から出たので、残念ではあるが、上告を取り下げる、等と伝える。



『これは非常に突然でしたし、弁護団としては、彼らは最高裁であらそうつもりではないかと予想していたものですから、ちょっとびっくりしました。いったいなんでこんな時期に取り下げてきたのか、率直に言って非常にわかりにくい。むしろ皆さんにいろいろお聞きしたいと思っているくらいです。
 ただ、一つ考えられるのは、創価学会側としても建前上やむをえず上告はしたけれども、彼らの主張が最高裁判所でとおる見込みは、客観的にはほとんどゼロに近い。事実関係は非常に明確に控訴審で確定していますし、憲法違反とか、判例違反というのはまず見当たらない。そうなると、下手をすれば、今年(1989年)の7月におこなわれる予定の参議院選挙の前に上告棄却になる危険性が十分にある。いま、創価学会・公明党は非常な窮地に立っており、混乱していますから、そのうえ『上告棄却』という形で明確な審判が下るのを避けたいということがあるでしょう。
 しかし、創価学会側としては、北条氏が関与していたことを認め、宮本氏と社会に対して謝罪するわけにもいかない。そこで彼らは、『談話』等でもいろいろ弁明しているように、創価学会としては北条氏は関与していなかったと信じている、しかし、北条氏の遺族や広野、竹岡らが個人として取り下げてしまったのはやむを得ないという形にして、自分の責任はまぬがれる、しかも、『上告棄却』という、もっとも明確な審判が下るのも同時に避けるというねらいがあるのではないかと思います。』
(松井繁明89年共産党刊『創価学会・公明党の電話盗聴』)



『盗聴は70年、当時、共産党委員長だった宮本氏宅に対してなされた。共産党はかねてから創価学会批判の急先鋒であり、学会はその動向を把握するため、内部に、後に『情報師団』と呼ぱれることになる秘密組織をつくった。
「組織は北条浩副会長(当時。後に会長)の指示によって作られ、責任者には学会の顧問弁護士だった山崎正友氏が就いた。宮本氏側は電話に雑音が混じることなどから盗聴に気付いて警察に届けたが、その時点では学会の関与は分からなかった」(共産党関係者)
 ところが、80年になって、池田大作名誉会長の側近となっていた山崎氏が突然、造反。宮本氏宅への盗聴を暴露したのである。
 盗聴事件は刑事事件としてはすでに時効となっていたため、宮本氏が学会の北条氏と山崎氏、そして竹岡容疑者ら『情報師団』のメンバー計5名を被告として損害賠償を請求する裁判を起こした。
 竹岡容疑者は当時、青年部副男子部長を務め、学会ではエリートとして知られていたが、裁判では盗聴の事実を認めた上で、「すぺては山崎氏の指示によるもので、北条氏ほか学会の組織的関与はなかった」と主張した。しかし、裁判所は一審、二審とも北条氏の関与を認め、学会の組織的犯行だったと断じたのである(学会側は上告したが取り下げ、判決確定)。』
(週刊ポスト2004年3月12日号)



『山崎氏によると、竹岡容疑者は、「山崎師団」と呼ぱれたグループの中心メンバーで、全共闘運動が華やかな時期に学生組織の設立に携わったり、日蓮正宗の信徒団体で創価学会を批判している勢力などへの盗聴工作にかかわったりした、という。
 これに対し、創価学会は宮本氏への盗聴について、組織としての関与を否定。「竹岡氏は山崎氏の下で働いていたが、その具体的な中身は知らない」と学会関係者もいう。
 宮本氏への盗聴後は、表の職務に従事し、「同世代でトップ10級でないとなれない」(関係者)とされる副男子部長など要職を歴任した。』
(AERA2004年3月8日号)



竹岡容疑者の名前がマスコミ報道に現れるのは、これが初めてではない。1970年、共産党委員長だった宮本顕治氏の東京都杉並区の自宅電話の電話線に仕掛けられた盗聴器が発見された。10年後の80年、創価学会元顧問弁護士が、週刊誌などで盗聴を告白。これを受けて宮本氏は最高幹部や顧問弁護士らを相手に損害賠償訴訟を起こした。一審、二審とも宮本氏側が勝訴し、被告らは上告したものの、その後取り下げたため、「創価学会の最高幹部が盗聴に関与していた」とする東京高裁裁判決の事実認定が確定した。
 この顧問弁護士の元で、盗聴を実行していたのが、竹岡容疑者だったのだ。
 あれから三十数年。竹岡容疑者は、どんな経緯で、今回の恐喝未遂事件にかかわるようになったのだろう。
 創価学会関係者によると、竹岡容疑者は昭和50年代に学会本部の職員となり、一時期は副男子部長という重要な役職まで務めたという。
 この関係者が言う。
「副男子部長には、10人くらいしかなれません。男子部には社会人1年生から入って、35?40歳くらいまで所属します。つまり彼は、この世代の中でベスト10くらいに入る地位にあったわけです」
 しかし、事件発覚後は特に目立った役職につくこともなく、98年11月には勤務していた聖教新聞社を退社。同時に本部の職員もやめた。最後の役職は聖教新聞社広告局の「担当部長」。いわゆる部長待遇の扱いだったらしい。
(週刊朝日2004年3月12日号)



そもそも盗聴事件とはどういうものだったのか。
 昭和40年代半ば、学会は、藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』出版に際し、言論妨害問題を起こした。これに対し、世間では批判の嵐が吹き荒れ、学会はこの対処に悪戦苦闘。そんな中でも、批判の急先鋒になっていたのが日本共産党だ。この共産党対策が必要と考えた学会側は敵方の動きを知るため、当時の宮本委員長の自宅電話に盗聴器をしかけたのである。この総指揮をとったのが、元学会の顧問弁護士で、池田名誉会長に重用されていた山崎正友氏だった。ご存じ、池田名誉会長が当時、〃四面楚歌君がおわせば王の道〃との歌まで贈った側近中の側近だ。
 山崎氏は学会の学生部からメンバーを選抜し、「山崎師団」と呼ばれた謀略部隊を編成した。この中でもとりわけ中心的な働きをしたのが、件の竹岡と、当時、学生部の主任部長だったH氏、そして常任幹事で、現在は学会系の葬儀会社を営むK氏の3人である。
「山崎氏のもと、学生たちは謀議を重ねたそうです。盗聴器を仕掛ける実行役を果たしたのが、竹岡とH氏です」(同) しかし、さして成果もないまま、盗聴器の取り付けが発覚。当時、事件は迷宮入りになったが、その10年後、学会と袂を分かった山崎氏が盗聴工作を〃自白〃する爆弾告白を行い、大騒ぎに。竹岡たちの非合法活動の全貌が白日の下に晒されたのである。ここは今一度、当の山崎氏に語ってもらおう。

政界に急接近
「その頃、私は学会で、尾行、張り込み、電話盗聴などの手段による情報収集を行う責任者でした。そのために借りた事務所には、池田氏も何度か立ち寄り、私たちの仕事を嬉しそうに見ていました。こうした作業の中で実行されたのが宮本委員長の自宅の電話の盗聴だったんです。Hは機械に強く、彼が中心になって盗聴器を作りました。竹岡は体が丈夫で、プレッシャーに強かった。で、竹岡とHの2人が宮本邸の横の電柱によじのぽり、盗聴器を仕掛けたのです」
 こうした非合法活動が露見したものの、すでに刑事事件では時効が成立。そこで共産党は、当時の副会長で、後に会長となる北条浩氏(故人)や実行犯などに損害賠償を求める民事訴訟を起した。裁判所は、これを北条氏の了承のもと、山崎氏が行った、学会の組織的犯行と断罪し、100万円の支払いを命じたのだ。
 その実行犯の竹岡が、今回また、情報に絡んだ犯罪で捕まったわけである。彼は一体どういう人物なのか。
 竹岡は広島出身。中央大学卒業後、学会本部の専従職員になった。
「盗聴事件が発覚しなかったことをいいことに、竹岡はその後も出世していきました。中枢の組織センターに配属され、将来を嘱望されたエリート中のエリートだった。昭和53年には創価班全国委員長、翌年には青年部の副男子部長も務めました。この時の男子部長が今をときめく公明党のプリンス、太田昭宏代議士です。ちなみに副男子部長は全国から10人しか選ばれない。つまり、彼は青年部のトップテンに入っていたということです。竹岡は池田名誉会長からも可愛がられた。
 名誉会長は彼の子供の名付け親にまでなっています」(学会古参幹部)
 池田氏、そして今の野崎勲副会長に見込まれた太田・竹岡コンビは、トントン拍子に出世する。そんな順風満帆の竹岡の学会人生に狂いが生じたのが昭和55年である。前述の通り、山崎氏が盗聴事件を公表したからだ。
「この時、学会内部でも、彼らを除名すべきだ、という声があがりました。しかし、上層部にそんなことができるわけがありません。でも、さすがに本部に置いたままにもできず、竹岡は聖教新聞に出されたのです。
それでも広告局の担当部長にして、それなりの処遇をしていたんです」
というのは、別の古参幹部。とはいえ、それも所詮は組織防衛のためだとか。
「ぞんざいに扱ったり、切り捨てたりすれば、造反されて、第2、弟3の山崎正友氏になりかねない。謀略部隊にいた竹岡に内部の悪事を暴露されたら、たまりません。池田名誉会長らはそれを恐れたのではないか」
 しかし、その竹岡は平成10年、聖教新聞を突然、退社。
 この頃から急速に政治家に接近する。公明党ばかりか自民党の議員にも近づき、政界人脈を広げていった。
「もっぱら永田町に出入りして、自分の商売に勤しんでいたようですね」(同)
(週刊新潮2004年3月11日号)

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学会の歴史(昭和63年) (5)

政党本部周辺の街宣に関する法律は、その数字が絶妙で、公明党本部を中心とする円内にちょうど学会本部が入るようになってます。特定宗教に有利な法律という訳です。

「国際平和非暴力研究所」ググってみたら9件ヒット。日本語検索ですが、英語でも推して知るべし。そもそも存在してるのでしょうか。

八尋さんも頑張ってます。信濃町六老僧の一人でしたっけ?

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1988(昭和63)年(5)

12/??
『国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律』成立。



『「池田私邸」を守る「政党条項」
総選挙の裏側を知れば知るほど、公明党・学会は今や政界全体に高く城壁をめぐらして、もはや恐いものがないかのように見える。
 実際、公明・学会ブロックは前号で指摘した『言論出版弾圧事件』(*1)とその後の政教分離宣言(*2)を契機として、ことあるごとに政治的な組織防衛の仕組みをつくりあげてきた。日本の政党、巨大宗教団体の中でこれほど危機管理に長けた組織は他になく、しかも、学会にとっては、公明党さえも楯にすぎないのだ。とてもひと息でいえないような長い名前の法律がある。
『国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律』
――といい、15年前の88年12月に制定された。名称の通り、国会や外国大使館に対するデモや街宣活動など、拡声器による騒音を規制するもので、条文にはないが、対象地域の概ね半径500メートル以内では街宣車などの立ち入りが阻止される。
 当然といえば当然、なるべくしてなった法律といえる。国民の誰しも不思議には思わないはずだ。しかし、その何でもない法律に、実は秘密が隠されており、それが後に日本の政治史に大きな影響をもたらすことになった。
 法律を制定したのは竹下登内閣だった。当時、国会はリクルート事件(*3)と消費税導入をめぐって紛糾し、野党の審議拒否で空転が続いていた。事態打開のきっかけとなったのは、公明党がそれまでの強硬な態度を一変させ、消費税に反対しつつも、審議に応じたからだった。問題の法律はその直後にできた。
 竹下内閣当時、衆院事務局委員部副部長として同法に携わった平野貞夫・民主党参院議員が制定の内幕を初めて語った。重大な証言である。
「あの法律は竹下内閣が消費税を導入するための見返りとしてできた。内容は、国会や在外公館の周辺で右翼などが街宣活動を展開して騒音問題が深刻になっており、規制しようという趣旨だったが、そこに公明党が『政党本部周辺も規制対象に入れてほしい』といってきた。政府はなんとしても消費税法案を成立させなければならなかったから、公明党が消費税の審議再開に応じることとひきかえに要求を飲んだ。官房副長官だった小沢一郎氏は『憲法違反じゃないか』と怒っていた。確かに、この法律は政治活動や言論の自由に抵触する恐れがあり、消費税導入のためとはいえ、私が手がけたなかでも悪法の一つと内心、忸怩(じくじ)たる思いを抱いている」
 同法第3条は《政党条項》と呼ばれ、国会や外国公館とは別に、政党の事務所(本部)を規制の対象に含める条文が盛り込まれている。
 創価学会本部がある東京・新宿区信濃町周辺には池田大作氏の邸宅や公明党本部、学会関連施設が集中している。それまで学会本部には右翼団体や反学会系組織の宣伝カーが連日のように押しかけ、拡声器のポリュームいっぱいに池田氏や学会批判を展開する光景が〃信濃町名物〃の観を呈していた。当事者には相当な脅威であり、戦懐であったことは容易に想像できる。
 とはいえ、一宗教団体を警察が24時間警備するわけにはいかない。幸い、公明党本部と学会本部はJR信濃町駅をはさんで指呼(しこ)の間(かん)にある。政党条項の裏には、党本部を街宣活動の規制対象にすることによって、そのまま学会本部周辺まで警察の警護エリアとして守られるという巧妙な仕組みが秘められていた。
 公明党が創価学会を守る砦そのものであることがよくわかる。逆に、学会にとって、公明党の消滅は裸の組織になることを意味する。後に新生党、日本新党、民社党などが結集した新進党の誕生によってその矛盾が噴き出した。
 公明党は新進党結党の時、まず衆院側を先行合流させ、参院と地方組織は『公明』として残し、後に全面合併するという二段階方式をとると約束していた。が、いざ参院公明の合流を迫られると、猛烈な拒否反応を示した。
「新進党の本部は国会の近くに置かれていたため、参院公明まで合流してしまうと、政党条項で学会を守れなくなるというのが公明を解散しない理由だった」
新進党中枢にいた民主党幹部はそう振り返る。当時、新進党党首だった小沢氏が突然、同党の解党を決断した背景には、公明党の存立目的と性格が一宗教団体の〃派生的存在〃にすぎず、それから抜け出すことができないと見切ったのが真の理由とされる。

*1言論出版弾圧事件/69年、評論家の藤原弘達氏が公明党の政教一致を厳しく批判した著書『創価学会を斬る』を出版する際に創価学会が行なった妨害工作。著者のもとに抗議電話が殺到したほか・創価学会の意向を受けた公明党の都議や、当時自民党幹事長だった田中角栄氏らが再三にわたって出版中止を要請した

*2政教分離宣言/言論出版弾圧事件が国会で追求されたことを受け、池田大作氏は70年5月、創価学会総会で公明党との政教分離を宣言した

*3リクルート事件/リクルートの関連会社であるリクルートコスモス社の株式が、店頭登録に先立ち多数の政官財関係者に安値で譲渡された事件。1988年の発覚後、自民党の藤波孝生元官房長官をはじめ12人が起訴され、全員に執行猶予付き有罪判決が言い渡された』
(週刊ポスト2003年12月5日号)



平野(※貞夫=当時、衆院事務局の委員副部長。のち参議院議員)によれば、88年に政府与党が静穏保持法を成立させたのも、公明党を消費税法案の審議に協力させるためだった。当時、衆院事務局の委員副部長だった平野は学会・公明党側から取引の相談を持ちかけられて「いいでしょう」と返答した。消費税法案は絶対に通すべきだという信念があったからだ。すると官房副長官の小沢が、
「あんたのような小役人がいいとは何ごとか。この法律は(表現の自由を規制する)憲法違反だ」
と言って怒り出し、学会・公明党の幹部らの前で激論になった。
最後に平野が、
「じゃ、消費税がどうたってもいいんですか。あなたは政府の人間じゃないんですか」と言うと、小沢は、「ウーン」と言って黙り込んだという。
(魚住 昭『野中広務「権力二十年戦争」』最終回『現代』2004年2月号)

12/??
【学会】徳島池田文化会館落成。

12/??
【学会】高知池田文化会館落成。

12/??
【学会】SGI会長、インドの国際平和非暴力研究所から『国際平和賞』を受賞。

12/??
国際証券、学会との取引に付き、法人担当の次長に減給10%4カ月の処分。(91年7/31国際証券・松谷社長記者会見)

12/08
公明党矢野書記長、朝日新聞の『明電工疑惑』取材に対し、「(自宅での2億円の受け渡しなど)絶対にありません。悪質なデッチ上げ」、「(明電工・中瀬古被告や石田専務に会ったことなど)ない」と答える。
(88年12/13朝日新聞)

12/09
朝日新聞、『明電工事件』中瀬古被告の株取引で、名義人に、矢野公明党委員長の現秘書2人と元秘書1人の名前があることを報道。

12/12
公明党矢野書記長、『明電工疑惑』の2億円カロリナ株購入に関し弁明。
(1)自分の元秘書にすすめて2億円を融資させた、
(2)2億の現金の授受は自分が立ち会って自宅で行なった、
とする。

12/下旬
画廊「アート・フランス」石原優社長および陶磁器販売会社「立花」立花玲子取締役から、ルノアール「浴後の女」「読書する女」の転売を委託されたマネジメント会社役員と創価学会員の企業コンサルタントの二人、創価学会の八尋頼雄副会長に購入を打診。(学会側の説明)

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