前回に続いて,聖教新聞の表現について素人考察してみます.

ご意見頂いた「高齢者に合わせるための表現」は,他の機会に何回か聞いたことを思い出しました.そうすると,もし一般の同世代の人々が聖教の論調に違和感を感じるならば,学会内の人は進歩がなかったことになります.実際はそれに近いものがあるのではないでしょうか.友人の本部職員も,「あれ(聖教の表現)をもっとやれという会員がいる」と言ってました.理屈を捏ねるより,「!」の多用で訴えた方が分かりやすいのでしょう.

要は,「正義!」「勝利!」というカラ元気や勢いを示すためなら分かり易いですが,「何を以って正義とするか?」なんて考えだしたら分かりにくいのが聖教新聞です.「頭ではなく体で信心を知るのだ」という言葉が何度も聞かれる学会ですから,学会の信仰の中心にあるのは,この「勢い」ということになります.それを補う(ごまかす?)ために,SGI提言や対談集などのアカデミック風なものを出していますが,これらを読んでも「何を以って学会正義とするか?」ということは分かりません.

「考えだしたら活動なんてやってられない」とは,活動家の誰かの言葉だったと思います.考えずただひたすら動く,やれば分かる,それが頭ではなく体で信心するということ,なのであれば,あまり人に薦められるものではありませんね.学会員も,そんな低級な信仰と思われたくないでしょうが,少し立ち止まって考えると活動ができなくなってきます.このジレンマの対処は難しいです.(実は活動を止めてみるという非常に簡単な対処があるのですが)

一方,学会本部は,日蓮大聖人の代名詞みたいな「四箇の格言」をこっそり捨てたりしています.ということは,外敵を作って内部を固める北朝鮮のような方法は,いつまでも通用しないことくらい理解していると見ていいでしょう.

座談会を見れば,いかに青年層が少ないか分かります.末端組織の主たる労働力と財源となっている中高年層の数を維持しながら,次の世代の労働力と財源を作っていくために,結構苦労しているようです.この両者を天秤にかけたとき,今の聖教の論調は中高年層を重視していることになるわけですが,将来を捨てても現有戦力の維持に走らざるえを得ないような組織の現状があるのでしょう.でも,それって末期的症状では...