これも昔の話です.わたしがまだ良く分かってなかった頃,いえ今でも良く分かっていないですが笑顔、学会批判をする人と何回かお話をしました.もちろんわたしが学会を擁護する方です.

そのときの私が使った「正義の対話」は今でも忘れません.なぜ忘れないのかといいいますと,自分の言葉が「なんて卑怯な『対話』だろう」と思えるからです.そして,気が付かないうちに,学会特有の(論理のない)論法を使うようになっていた自分が情けなく思えるからです.

わたしが言った言葉は,

学会は庶民の味方で,学会を本当に支えているのは
幹部ではなく,無名のおじさんやおばさん達です.

というものです.この種の言葉は,そのときの対話の脈絡にあまり関係がない時に使われたりしますね.要するに,

あなたの批判は的を射ているかもしれないけど,
あなたはそうやって弱者をいじめる酷い人なの?


ということを言わんとしていて,学会の組織悪の話から,「批判者の冷酷さ」に問題を変えることができるのです.実際,わたしはこの方法で成功していた記憶があります.これに似た言葉は,

先生や学会の恩を忘れたの?


というものがあります.この言葉を発したとき,学会問題は消え去り,「批判者は恩知らずな人間」ということに話が変わります.

いまふと思ったんですが,聖教新聞を読んでいると,上記のような言葉が自然と出てきそうですね.ああ,なるほど...

前にわたしが何か疑問を持ったとき,地元の幹部では埒が明かず,本部職員の友達なら何の気兼ねなく話ができるだろうと思い,その本部職員にいくつか質問しました.その友人からはまともな回答はなかったかわりに,「友人なのにそんな質問責めにするな」と言われてしまいました.友人だからこそ,"なあなあ"の関係ではない突っ込んだ話ができるのに,わたしは友人をいじめる悪人になってしまいました.