「学会における様々な問題は,学会幹部のせいで,池田先生は悪くない」と言う学会員の意見をたまに聞きますが,わたしはそうは考えません.池田先生の言動は,問題を大きくしていることが多いですし,それを見て見ぬ振りをする各々の学会員にも責任があります.

学会員はとにかく池田先生を絶対神聖なものと見たがるので,実はそうではないのではないかという問題提起をいくつか書いてきました.良く見られていない聖教新聞に関することも,その一つです.こうした問題提起から,まず学会員が池田先生絶対という思い込みをやめ,冷静に学会を見詰められるようになれれば,わたしは嬉しく思います.

池田先生が信仰対象であるのなら,わたしはそういうことは言いません.事実,学会員全員が「池田先生は信仰対象じゃない」と言い切ります.人間が絶対であるわけがないのです.しかし,池田先生の過ちを指摘すると,学会員の中には「信仰対象が絶対でない」と言われたと思ってしまう人がたくさんいます.

「聖教新聞は池田先生からのお手紙」と言われるくらいなのですから,「聖教新聞が酷いのは池田先生の責任」であることは確かです.「平和」や「友情」を語るのは表向きのポーズで,普段の聖教の端々に先生の本音が見えています.それが違うと言うのであれば,代わりの意見,別の理由を挙げて,否定してもらってもかまいません.わたしは,納得できる意見には素直に共鳴する人間です.

別の意見を言葉で表現せず,「否定したい」という感情を先行させて,とにかく相手を否定し貶すということだけはやめて欲しいのです.聖教新聞のそういう手法が問題になっているのです.聖教によると,日本は「精神後進国」らしいのですが,相手をそうやって罵るという醜態が,嘲笑されているのです.

それから,「池田先生からのお手紙」である聖教新聞に毎日書かれている言葉には,世間ではあまり使うべきではない表現がたくさんあります.聖教新聞に書かれているからと言って,簡単に世間で使うことは控えましょう.対話もせずに,相手を上から見下ろす言葉を吐いて,空虚な悦に入る態度を見直しましょう.お互い理由も述べず,「おなたは浅い」「いや,あなたの方がズレている」「いえいえ,あなたこそ生半可だ」「のたれ死ぬ(by 寸鉄)のは,あなただ」と言い合っても仕方ありませんよね.これではまるで,学会と宗門の喧嘩になってしまいます.何も生み出すことができません.