この時代に関係がありますので、とある掲示板からSGI氏の発言を抜粋します。

(ここから)---------------------------------------------

47 名前: SGI 投稿日: 2003/05/08(木) 22:20

 名誉会長の入信は、昭和22年8月。昭和3年1月生まれの名誉会長は19歳だった。この「19歳」も、師弟神話に脚色する。つまり「牧口と戸田」「戸田と池田」の出会いにおける師弟の年齢が一致する、というウソである。

 「牧口と戸田」の出会いは、牧口先生が東京・西町小学校の校長時代〔大正8年12月12日?9年6月22日の半年間〕。ところが2人の出会いの正確な日付が明らかではない。様々な資料に当たったが、曖昧で確定しないが、「48歳と19歳」か「49歳と20歳」のいずれかになる。

 一方の「戸田と池田」は、昭和22年8月とすれば、戸田先生が47歳で名誉会長は19歳。そこで、弟子の年齢を「19歳」と限定しても、牧口:48歳で戸田:47歳で一致しない。つまり、「48歳と19歳」で一致し「仏法の不思議」とか「尋常ならざる因縁」という師弟神話は成立しないのである。

 さらに名誉会長が、戸田会長の事業に従事した日付も資料によってマチマチだ。また「出版業(編集者)」なのか「信用組合・金融業」なのかはっきりしない。

 とりあえず『革命の大河』に基づき、昭和24年1月、雑誌編集者ということにしておこう。ところが『冒険少年』は同年8月に『少年日本』と改題され、10月には廃刊となっている。この時、戸田先生は全社員の信用組合への異動を命じている。つまり名誉会長の編集者生活は、最大限に見積もっても1年弱。
 
 信用組合は、翌25年8月に業務停止命令が出され、戸田会長は同年秋に大蔵商事を設立。名誉会長に営業部長を命ずる。したがって戸田先生の下で従事した仕事の大半は、保険代理業や高利貸し、手形割引等を営む大蔵商事の“営業”である。
 名誉会長は、編集者であったことをいろいろな機会で得意気になって公表している名誉会長だが、高利貸しの“営業”だったことはひたすら隠す。

 信用組合が26年3月に正式に解散すると、戸田先生は学会第二代会長に就任。大蔵商事の業績も、信用と顔がものをいう世界だけに、顧問の戸田先生が会長を務める学会の発展に伴い、急速に好転していく。
 信用組合の清算中は給与の遅配や分割払いもあったが、解散後は、歩合給の池田大作営業部長も、債務者への取立てに辣腕ぶりを発揮し、相当の高給を得るようになった。あの住宅事情が悪かった時代にもかかわらず、20代の若さで家持ちとなるほどだ。
 この経済力が、学会組織内で幹部として出遅れた分を取り戻す源泉となったのである。

74 名前: SGI 投稿日: 2003/05/11(日) 22:40

>>47 自己レスの続き

貸金の取立てなどに辣腕をふるい、金回りのよい名誉会長は、
田代冨士男元参議院議員の手記『将軍学を学ぶ』など、多くの資料でも明らかなように、
会員に対して頻繁に万年筆やライター、念珠、交通費等をあげたり、ビスケットや饅頭、チョコレートといった菓子類の差し入れ、ラーメンやカレーライス、時には寿司などをおごる。
こうした“気配り上手”が、金の世界で誰よりも「生き金・死に金」を学んだ名誉会長の最大のセールスポイントとなった。

戦後の新興宗教ブームは、一般に「貧乏・病気・争い」からの救いを求めて起こったといわれる。再建当時の学会も「貧乏人と病人の集まり」といわれ、ご多分にもれなかった。誰もが貧しかったのである。
そこに、戸田先生の下で働き、妙に金回りがよく、いろいろと“気配り”してくれ、時には「ベートーヴェンを聞こう」なんてことを言い出す、こざっぱりした若いやり手いる。クラシック音楽などには縁がなかった人々であるだけに、畏敬の念も生まれよう。
こうして、組織内で幹部として出遅れた分を取り戻すどころか、名誉会長を中心とする親分子分にも似た集団が青年部の中に生まれていったのである。


75 名前: SGI 投稿日: 2003/05/11(日) 22:42

名誉会長のもともとの本名は「池田太作」。
長男・博正氏が生まれた時、正式に「大作」と改める。「たいちゃん」「たっちゃん」と呼ばれていた少年時代に触れられることをひどく嫌う。記述は省略するが、複雑な家庭環境にあった。
父・子之吉氏は「強情さま」ともいわれるほどの真言宗の強信者。葬儀も真言宗で行っている。名誉会長が折伏した家族親族は、一応十人兄弟姉妹といわれる中で、兄弟2人だけだという。

名誉会長は1対1の個人折伏がとても苦手。
“人間・池田太作”を知る人の大半は、入信していないようだ。幹部として指揮する立場を得た時は、自信に満ちたはったりと気配りで成果を出しても、名誉会長自身が紹介者となる個人折伏は、ご本人が語るようにあまりない。
「『折伏しろ』っていうから、私は自分の友だちを十人ぐらいよんだのです。…会長先生がわざわざ、私のおよびした会合に出て下さったこともありました。しかしだれも信心しないのですよ。一生懸命やってもね。みな友だちがはなれっちゃうんだよ」(『聖教新聞』昭和34年2月6日付)。
他人の成果をも自分の手柄にして誇るよりも、素直に御本仏のご照覧に委ねる方が、よほど信仰者らしいと思うのだが……。

戸田先生時代、「教学の石田・行動の池田」といわれていたと聞く。
≪名誉会長の教学歴は、別スレ「初心者に教えてください。 」>178 をご覧下さい。≫

名誉会長が得意なのは“実践の教学”。
大聖人の御消息を切り文して、組織活動の中で状況に応じ、陳列していくやり方だ。この独特な解釈展開が、教義解釈になりがちな講義よりも受けたのである。「私のは対機説法だから、難解な講義よりよっぽどいいでしょう」とのたまう。
会長就任後の『御義口伝講義』や『立正安国論講義』等でも、現代解釈や生活に約した展開は“ヒラメキの人”だけに口述しているが、法義の解説に関しては優秀な教学部スタッフが担当している。40年間、いつもこのやり方で通している。

それでも、名誉会長のこの独特な解釈展開は、昭和30年代でも、1つ1つの組織活動のみならず名誉会長に関わる個人的な言動にも、何か大聖人の深いご法義の裏付けがあるかのような錯覚を周りの青年部会員に与え、“名誉会長は特別なのだ”という雰囲気を生んでいったのである。

106 名前: SGI 投稿日: 2003/05/15(木) 00:31

>>79 自己レスの続き
 
 名誉会長は、>>47 >>74 に記したように、財力と気配りとはったりで会内での序列をのし上がる。
 ついに昭和29年3月、翌年の統一地方選への挑戦=政界進出を念頭に、青年部組織の改変=1支部1部隊制に伴い参謀室が新設された。名誉会長は、自ら進んで青年部参謀室長のポストを買って出た。と共に、対外折衝を担当する渉外部長に就任し、中枢幹部入りを果たす。

 29年末の学会世帯数は、約16万世帯。毎月1万世帯が入信するという、怒涛の「折伏大行進」が全国で繰り広げられていた。当然、既成宗派等との軋轢を生み、しばしばマスコミにも取り上げられるようになった。「暴力宗教」キャンペーンなんかもあったという。
 そこで対外折衝の担当者として、戸田会長の下で働き、金融の世界に生き、世知に長け、人当たりが良く、外交(営業)の才能があった名誉会長こそが適任とされたのである。つまり、選挙と対外折衝のためにポストが与えられたのである。

 中枢幹部入りした名誉会長は、小樽法論の司会者を務めたり、30年春の地方選や31年の参議院選挙で役務をこなし、幹部としての足場を固める。そして参謀室長の立場で、青年部内に池田派ともいうべき集団を形成していく。名誉会長は「俺は戸田親衛隊長だ」と広言し、どんどん参謀室が青年部全体の運営にも関わるようになっていったのである。

 戸田先生の組織運営は、名誉会長のような一切合財「報告書」に認め指示指導を仰ぐというものではなく、基本方針を示した後は、いつも野放しで、担当者や役務者の勝手にやらせ、脱線するとコラーッと叱りながら、手綱を引くというもの。

 それをいいことに名誉会長ら参謀室は、辻青年部長や牛田男子部長の意向を無視し、「若人の祭典」とか体育大会、男子部1万名登山等のイベント開催を積極的に行った。
 名誉会長は、年齢や入信年月が近い参謀室の面々や古参の部隊長には“兄貴風”を吹かせ、それ以下の部隊長や幹部・部員には“親分風”を吹かせ、青年部の実質運営者は池田参謀室長との構図を作り出したのである。なにせ誰よりも、金力と気配り・はったりに富むのだから、右に出る者はいなかった。

(ここまで)---------------------------------------------