この時代に関係がありますので、とある掲示板からSGI氏の発言を抜粋します。

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107 名前: SGI 投稿日: 2003/05/16(金) 00:32

 前レス>>106の続き
 さてさて、青年部クーデターに話を戻そう。

 名誉会長は、戸田会長逝去後、渉外部長を辞任するものの青年部参謀室長のまま、総務に就任する。
 だが総務職の規定は、当時の学会規則にはなく、その権限も定められておらず、法的にも組織機構的にも“幽霊職”のままだった。既成事実の積み重ねだ。

 >>14 で記述したように戸田会長の生前中は石田次男氏が後継者と目されていた。
 また、戸田会長の逝去後は「戸田先生の七回忌までは会長不在」というコンセンサスが中枢幹部らにはあった(>>13 参照)。信徒団体なのだから、御法主上人猊下を師と仰ぎ、まとめ役としての理事長がいればいいのであって、急いで会長を選出することもなかろう、との意識もあったのである。
 
 にもかかわらず、名誉会長は野心達成のために、この総務と参謀室長の立場をフルに利用した。
 まず、無規定の総務職を選挙対策の責任者のように見せかけ、参議院選挙を取り仕切ることで、会長就任への工作を行う。つまり、最大のライバル・石田次男氏を昭和34年の参議院選に立候補させ、学会内での要職を失わせると共に、反池田派と目される先輩理事らに議員職を与え、会内での影響力を削いだのである。

 また、戸田先生の遺産整理を担当し、個人名義の資産をも学会の帰属にし、池田派の多数派工作に流用(着服もあったかもしれない)。香典も、北条浩会長の時と同様に、学会葬ということで、一部を除き遺族に渡さず学会会計に組み入れる。

 名誉会長は、戸田会長の事業・高利貸し業に従事していた時から、大変な高給取り(>>47 参照)。当時で月額20万円以上とさえいわれている。その上、当時の学会では資産家といわれた白木家との姻戚関係を持ち、さらに政商・塚本素山氏とも親しかった。
 こうした財力にものを言わせ、青年部幹部らの歓心を買い、参謀室を足がかりにして、選挙戦を仕切ることで、参謀室を青年部機関から学会総体の機関に引き上げて、覇権をめざしたのである。


108 名前: SGI 投稿日: 2003/05/17(土) 23:32

 組織ライン(本部?総支部?支部?地区?班?組)でもなく、壮・婦・男・女の四者でもなく、また本部事務局や『聖教』『大白』、教学でもない、それ以外の業務を担当するといった意味合いで「総務」というポストが生まれた。したがって、組織機構上の位置づけも、権限も、具体的な担当業務も、何も規定せず、ただポストだけが名誉会長のために新設されたのである。

 名誉会長は、大蔵商事の仕事(>>47 参照)を部下の中西治雄氏に任せ(役員に昇進し現場から離れる)、この無規定の「総務」に専念する形で、24時間“本部幹部”として専従する立場を得た。責任役員でも理事でも部長でもなく何の権限もないのに、専従職員や職業幹部がほとんどいなかった学会本部において、無規定であるが故に何でもできる状況が、全レス>>107のような行動を可能とした。小泉隆理事長は「実権を取られた」とボヤいたという。
 
 総務職が正式に規定されたのは、1年余後の昭和34年6月。「理事長の下に理事室を代表して事務局及び各部を統括する」というもの。これは、実質的にナンバー2を意味する。しかも、新任の理事が理事室を代表するという破天荒な人事であるばかりか、その理事室の代表者が法的には何らの立場を有していない(責任役員には未就任)という代物なのだ。

 この時の組織改革は、青年部参謀室が理事室入りを果たしことを意味する。かつ、学会事務局には北条浩と森田一哉が局長・次長に就き、『聖教新聞』編集長と青年部長に秋谷城永(後に栄之助)、男子部長に多田省吾、女子部長に湊時子(現姓・多田)が就任。まさに青年部池田派の主要ポスト制圧であった。

 新たに理事になった4名〔池田大作、北条浩、森田一哉、竜年光〕は、宗教法人法に基づく責任役員にはつかず、理事と責任役員は同一という、それまでの原則が崩れた。また、代表役員代務者だった小泉隆理事長は正式に代表役員となり、法的には創価学会の第三代会長となっている。これは、青年部池田派の行動をよしとしない者たちの抵抗を示す。法律上の権限=“名”は渡さないという手段に出た。


109 名前: SGI 投稿日: 2003/05/17(土) 23:33

第三代会長選出をめぐる経緯は、けっして伝えられているようなキレイ事ではない。
 実質的には、名誉会長と青年部参謀室によるクーデターである。彼らの権謀術数は、常に“名”を捨て“実”を取り、やがて“名”を整えるというやり方だ。「勝てば官軍」という覇道であり、王道ではない。

 名誉会長の野心は、現学会首脳である当時の青年部幹部・池田派による、学会最高幹部の代替わりによって達成されたのである。戸田先生に早くから大抜擢され、理事に就任(戸田生前中の唯一青年部出身理事)していた石田次男氏は、この代替わりの際、古参幹部陣に繰り入れられ、参議院議員に棚上げられてしまった。石田氏に対する妬みもあったのだろう。また、石田氏や小泉理事長らは、青年部池田派のように権謀術数の資質を持たなかったのである。

 「三代会長は戸田先生の七回忌後」というのがコンセンサスだった(>>13 参照)。なのに、総務の名誉会長だけは「早く三代会長を実現しないと戸田先生のご意思に反する」と主張。このドグマに青年部幹部(池田派)が同調し、名誉会長を押し立てて、一気に世代交代を図ったのが真相だ。34年6月の組織改革で、事は決したのである。


111 名前: SGI 投稿日: 2003/05/19(月) 00:17

>>109 自己レス続き

 昭和33年3月、総本山で起こったことは、あまりにも生々しい。
 名誉会長は、死の床にあった戸田会長を蔑ろにし避けながら、悪辣非道の事を行い、青年部幹部らに後継者であることを印象付けていく。小説『人間革命』は、脚色・誇張・すり替え・捏造に満ちている。
 当時の中枢幹部や青年部幹部ら数名から、知られざる多くの事実を聞いたのだが、いかんせん直接体験したわけではないので、ここでは明らかにできない。外形上の名誉会長のポスト遍歴や組織改革を中心に、第三代会長選出が「青年部クーデター」であることを記している。

 昭和35年5月3日、第三代会長に就任した名誉会長は、腹心の北条前会長を新設の副理事長にすえ、本部事務局は森田、『聖教』と青年部は秋谷、渉外・広報は藤原行正元都議、出版は中西治雄元総務といった具合に側近で固める。というよりも、青年部池田派が要職を独占し、池田大作を表にした「学会中枢」を作り上げたのである。

 そして、小泉理事長を本部最高顧問に、和泉覚理事を文化部最高参与に、石田氏を副指導部長に、辻武寿理事や柏原ヤス理事を参議院議員へ、それぞれ戸田先生の下で学会再建に尽くした草創の先輩幹部をことごとく主要ポストから外していった。

 責任役員の枠も7名から15名に増設し、旧理事7名と同数の新理事7名を任命。責任役員会の過半数を制する。なお、名誉会長はそれまで一度も法的には登場したことがなく、ここで突如、責任役員および代表役員となる。その後36年7月に、責任役員は秋谷現会長を筆頭に一挙に14名が加わり、さらに翌年2名が追加され、名実共に「池田政権」は確立していくことになる。
[続く]


112 名前: SGI 投稿日: 2003/05/19(月) 00:19

[>>111 続き]
 こうした青年部池田派の行動に反旗を翻したグループがある。
 蒲田支部や大阪支部の支部幹事、男子部部隊長などが、名誉会長の第三代会長就任にまつわる全てを「汚い」として、『顕徳会』と名乗る分派を結成。この旗揚げは、名誉会長の蒲田での言動や、大阪での選挙活動、青年部池田派の秩序破壊などを踏まえてのことだった。

 対する学会中枢(池田派)は、学会除名と、宗門に働きかけて『顕徳会』の不認知・破門で抗した。正宗からの破門は、当時の信徒にとって、何よりも堪えがたい措置である。こうして造反運動はつぶれた。
 学会再建に尽くした古参幹部らは、名誉会長や青年部のクーデターに不満を抱いても、反旗を翻すことはできなかった。戸田先生の「譲る会長は一人でありますが、その時に分裂があってはなりませんぞ」との言葉に縛られたのである。
また、反乱に失敗し生活を破綻させ、かつ正宗からの破門への恐れもあった。あるいは議員という栄誉や会員からの信望も惜しい、との人情もあったのであろう。さらに、学会総体の躍進は凄まじいものがあった。目覚しく発展していく学会を前にすれば、青年部池田派の行いを認めざるをえなかったともいえよう。

 一方、青年部池田派はクーデターを正当化させるために、会内で「池田大作」の宣揚を積極的に進めた。「戸田?池田の師弟神話」(王権神授説)など、デッチあげとすり替えの神話・伝説作り、指導者として「類まれなる人物・池田大作」の演出、はては「会長帰命説」に至る法義利用等々、会員の間に“池田大作絶対”の雰囲気を醸し出し、幹部らの造反を防いだ。この手法は今日まで続いている。
 「池田政権」は、多少の揺り戻しはあったものの、昭和40年頃までには安定確立し、41年5月の「学会規則」改定では、会長の任期を終身とする独裁体制を完成させたのである。


116 名前: SGI 投稿日: 2003/05/20(火) 00:39

>>112 自己レスの続き

 学会中枢を支配した青年部出身の最高幹部たちは、互いに姻戚関係を結び、自分たちの権益を守りながら、手足となる「学会テクノクラート」(本部職員)の養成を急いだ。そして優秀なテクノクラートたちはその期待に応えていった。

 公明党の結成・衆議院進出の選挙運動による組織の引き締め、大客殿や正本堂建立という目標設定、文化祭・民音・出版・教育などの多様化、日常業務や組織運営(たとえば、地域ブロック制の導入等)の近代化といったことが、「最高の実務家」「組織の人」といわれる秋谷現会長の下で、効果的に整然と進められたのである。

 学会の躍進は、人心掌握術・カリスマ性に富む“池田大作”を前面に押し立てて、これを支えた秋谷現会長を筆頭とするテクノクラートの手腕だ。「池田40年の歴史」は、同時に「秋谷40年の軌跡」でもある。

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