この時代に関係がありますので、とある掲示板からSGI氏の発言を抜粋します。

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117 名前: SGI 投稿日: 2003/05/20(火) 00:40

[>>116 の続き]

 秋谷栄之助会長は、入信当初から「カミソリのように切れる頭脳」といわれていたという。そこで「理の人」「情に薄い人」との評判も根強い。
 それはともかく、秋谷会長夫人は、石田次男氏の実妹。
 つまり、名誉会長の最大のライバル・次男氏や石田幸四郎・元公明党委員長とも姻戚関係(次男氏と幸四郎氏は兄弟)を持つ。次男氏の存命中は、幸四郎氏や秋谷家は次男氏と絶縁状態だったとも聞くが、いずれにせよ、秋谷会長は、戸田会長時代、戸田先生の後継者と目された石田次男氏と姻戚関係を有しながら、一方の雄・名誉会長と共に青年部主流の一翼を担っているのだ。

 そして「池田政権」が誕生すると、名誉会長をサポートする形で『聖教新聞』編集長として学会の最高意思決定に関わり、さらに藤原行正氏と共に対外的な交渉折衝をも担当。その上、青年部長として「学会テクノクラート」の人材発掘も自らの手で行い、育成し、各部署につけていった。やがて学会事務局も掌中に収め、「学会テクノクラート」(秋谷人脈)の筆頭として確固たる地位を築き上げている。

 名誉会長と秋谷会長は、共に議員を経験せず、学会の要職に専任することで、学会内で不動の地位を得た。名誉会長の片腕ともいうべき北条前会長は、参議院議員になった古参幹部らのお目付け役として一時、参議院議員になっており、そのことが本部事務局での秋谷人脈の拡大を許したのである。

 もう一人の議員未経験者・森田理事長は、所詮“町役場の小役人”程度の能力しかなく、秋谷人脈にとってはアクセサリーにすぎない。藤原行正氏の後任として広報を担当している山崎副会長や関西の和田副会長らは、単なるイエス・マンであって、意思決定を司るだけの器量はない。結局、現在の池田創価学会は、秋谷人脈によって全てが決められている。


120 名前: SGI 投稿日: 2003/05/21(水) 23:31

>>117 自己レスの続き

 戸田先生は、昭和28年夏、石田次男氏に次期会長の打診を行っている。しかし石田氏は「任にあらず」と断ったという。それでも戸田先生は、側近幹部や九州・八女支部での会合など折に触れ「次は次男だ」と語っている。

 そして、次代の学会を担う青年部の中から、これぞと思う人材に対しては、水滸会や華陽会の薫陶とは別に個人教授での訓練を実施する。彼らには、ご自分の名:城聖の「城」を与えており、期待の大きさが分かる。秋谷現会長もその1人だ(>>15 参照)。

 推測であるが、戸田先生の後継者構想は、石田次男氏を会長に据え、その「石田体制」を支える人材として秋谷会長を考えていたのではないだろうか。秋谷会長は、昭和31年に男子部長に任命されており、また戸田先生の媒酌で石田次男氏の実妹と結婚している。戸田先生の秋谷会長に対する期待がうかがわれるのだ。

 名誉会長は、組織人事本流の役職に一度も就いていない。また常々「戦前は教学がなくてつぶれた」と語られていたというのだから、教学部の存在は大変重要な位置づけにあったにもかかわらず、名誉会長は教学での貢献もない(>>75 参照)。教学面では、いつも戸田先生に叱られていたという。戸田先生が名誉会長に期待したのは、選挙などに関するオルガナイザーとしての手腕ではないだろうか。

 ところが「次の会長は皆で相談して決めろ」との遺言をタテに、名誉会長の野望に呼応する形で、青年部参謀室を中心とする池田派がクーデターを起こし、強引に第三代会長の座を奪ってしまった。このクーデターに秋谷会長は、戸田先生の“想い”を蔑ろにし参加したのだ。「石田政権」より「池田政権」を選んだのである。
 「池田政権」誕生と共に、秋谷会長は、戸田先生からいただいた「城永」の名を捨て、再び「栄之助」に戻り、「池田政権」の中で確固たる地位を築いていった。


123 名前: SGI 投稿日: 2003/05/24(土) 21:48

>>120 自己レスの続き

 名誉会長は、第三代会長に就任すると、こう言った。「戸田先生の本当の姿や心は私を通さないと判らない。君たちは知っているようで知らないのだ」と。
 これを受けて、参謀室以来の腹心である北条前会長は、「私たちは愚かでした。戸田先生と行動を共にしていても、雖近而不見で本当の戸田先生を知らなかったのです。本当の戸田先生のことは、今池田先生から伺って少しずつ判ってきました」と応えた。見事な忠臣ぶりだった。こうして戸田先生の指導も、名誉会長のフィルターを通して読み替えられていく。
 
 戸田会長の時代はテープレコーダーは一般には普及していない。また、戸田先生は極度の近眼のため、あらかじめ原稿を書くということをしなかった。いつもアドリブだ。『聖教』や『大白』の原稿も、ほんの例外を除いて皆口述筆記なのである。したがって、戸田会長の指導録や講演録は、全て出席者・同行者の筆記メモに基づく。
 
 そこで名誉会長は、会長就任後、戸田会長の『方便品寿量品講義』や『戸田城聖全集』等を刊行する際、自己の都合の悪い部分や真意を理解できない部分を削ったり手直しをしている。
 戸田先生の口述筆記を担当したのが、秘書の和泉美代女史や山浦千鶴子女史、『大白』や『立正安国論講義』は小平芳平元教学部長、『聖教』関係は石田次男氏らがまとめている。
 にもかかわらず、名誉会長は、戸田会長時代を知らない若手職員に『全集』などを担当させた。しかも石田氏ら当事者に接触することを禁じたのだ。

 名誉会長ら学会中枢は「戸田先生のことは池田先生だけが知っている」というドグマを展開した。師弟不ニの神話を説き続け、名誉会長の“解釈”による戸田先生の教理・指導・言動の再構築を図っていったのである。
 戸田先生の教えを忠実に守り実現しているように見せかけ、実は名誉会長らの都合に戸田先生の教えを変えていったのである。足に靴を合わせるのではなく、靴に足を合わせるという、本末を転倒した行為―戸田会長利用―師敵対行為を、こうしたところでも重ねているのだ。


124 名前: SGI 投稿日: 2003/05/25(日) 00:10

>>123 自己レスの続き 

 名誉会長の第三代会長就任は、“池田大作”を旗頭にした青年部池田派のクーデターであることを長々と書き込んできた。このクーデターが師敵対の行為であるが故に、クーデターを正当化させるために、戸田=池田の師弟神話を作り出さなければならず、名誉会長が“特別の人”であることを演出しなければならなかった。その際たる現われが、小説「人間革命」が描く世界なのである。

 このような「池田大作の宣揚」は、当然のことながら名誉会長の望むところである。本仏意識に基づく神格化願望は、早くから抱いていたようだ。就任以前より、そうした特異の言動が散見している。
 クーデターの成功によって「池田政権」を樹立した名誉会長は、「私を守れ。私を守ることは学会を守ることだ。学会を守ることは、広宣流布を進めることになる」との指導を繰り返す。こうして学会のあらゆるシステム・活動・方向性が、名誉会長のために仕えるようになり、名誉会長そのものが創価学会=体現者という実態を築いていったのである。⇒「池田国体説」(参照「創価学会(SGI)は世界宗教をめざす」スレッド >415)。

 しかし、クーデター推進実行者である秋谷会長ら青年部池田派の幹部らにとって、名誉会長の独裁は「委任の君臨」であり、名誉会長は「同輩者中の第一人者」にすぎない。ただ師敵対行為であるクーデターを正当化させるためには、名誉会長を第三代会長に推した理由づけのために、師弟神話など「池田大作の宣揚」を必要としたのである。彼らにすれば、学会の“象徴”としての「池田大作」なのだ。⇒「池田機関説」(参照 同スレッド >416)。

 だから、青年部池田派にとって、学会批判や事実の暴露はそのまま「池田政権」の崩壊につながりかねず、そこで池田会長就任以来、長年にわたり“言論弾圧”を行ってきた。だか、ついに『創価学会を斬る』(藤原弘達著)で“鶴のタブー”が表面化。「池田政権」崩壊の危機を招く。

 この世間の激しい非難の嵐に、名誉会長は「私を守れ」と叫ぶだけで、箱根に逃げ隠れてしまう。若い頃の結核が元因の肺炎で微熱が続いていたというのはウソ。学会本部では、北条前会長を中心に善後策が連日にわたり講じられた。形振り構わずの組織防衛だった。
 最後は、自民党や右翼勢力と取引きをし、妥協を図ったのである。そして、政教分離・「国立戒壇」破棄・折伏路線の転換・思想的独善性の否定といった、創価学会の根幹をなすテーゼを揺るがしてしまったのである。

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