学会が得意とする(?)盗聴と出版妨害が始まります。

『前進』2月号:
『私から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けることです。会合もただ列座しているのと、記別を受けて出るのとでは違う。記別とは信心の血脈です。これなくしては「法華経を持つとも無益なり」である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ、「霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色になる」との御金言のごとく、幸福境界を確立することができるのです。』

要は、池田本仏であると。

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1967(昭和42)年 (1)

※学会、『躍進の年』。
※学会、館岡倉市(のち副会長)下の連絡局で盗聴活動を始める。

(?)
【学会】顧問制を廃止し、塚本素山を組織から切る。
塚本はこのあとも日蓮正宗の信徒として、日達猊下とさしで面談するなどしている。『社長会記録』には、塚本が学会の会計について問い合わせてきたとの池田の言葉がある。



『塚本氏は、戦時中、支那(現在の中国)東部方面軍の副官であった。笹川(良一)氏は、周知のように児玉誉士夫氏と並んで物資調達の民間機関を運営していた。児玉氏は主に上海地方で海軍の下請けをしており、笹川氏は陸軍の下請けをしながら中国大陸に進出していった。当然のごとく、塚本副官と笹川民間機関は仕事のうえでも〃同志的〃結合があった。』
(丸山実『花形記者は転んだ』P33)

『創価学会はなぜ塚本氏を切らなければならなかったのか。それは中国を射程に入れたからだ。毛沢東率いる当時の中国にとって宗教は不要。では何が目的か。日中国交回復の橋わたしであった。それにもう一つの目的は創価学会が抱えた黒幕の大半が「アメリカ・ロビー」であったこと。彼らは、確かに国内における支配者層への目配りは効いたが、世界へ進出しようとする創価学会にとってかえって足かせになったとみえる。』
(同P45)

01/??
三一書房、毎日新聞記者・内藤国夫に都議会公明党に関する本を執筆するよう依頼する。

01/??
公明党の飯島勝(元中央委員、香川県本部長)、総選挙直前に共産党香川県委員会事務所と高松平和病院の2ケ所に電池式盗聴器を仕掛ける。

01/01
【学会】『大白蓮華』1月号発行。猊下、寄稿文の中で「日蓮正宗総本山に、事の本門戒壇堂ともいうべき正本堂の建立起工式が行なわれる」とする。

01/29
第31回総選挙。
公明党25名が当選し、参議院で第三党、衆議院では初進出でいきなり第四党となる。大橋敏雄、福岡二区でトップ当選。自民50%割る。
公明党の伊藤惣助丸、初当選。
選挙の二日後、池田会長は突然、公明党の委員長だった辻武寿、北條浩を更迭して、竹入・矢野体制に移行させた。竹入は都議会議員で学会組織では世田谷第一本部の本部長だった。

02/??
【学会】『前進』2月号発行。
『そばにいても、会長の心を知ることは難しい。雖近而不見(すいごんにふけん)である。』
『私から幹部の任命を受けることは、記別(仏が弟子達の未来の成仏を約束すること)を受けることです。会合もただ列座しているのと、記別を受けて出るのとでは違う。記別とは信心の血脈です。これなくしては「法華経を持つとも無益なり」である。私は現在の仏法の指導者です。私を中心にして御本尊を信ずることによってこそ、「霊山(りょうぜん)に近づく鳥は金色になる」との御金言のごとく、幸福境界を確立することができるのです。』
との池田会長の指導を掲載。



『記別とは、仏が弟子に対して将来の成仏の予証を与えるものである。それを「私を中心にして御本尊を信ずる」というのは、自らが既に仏であるか、それに近い尊い立場であると慢心しての発言であろう。戸田前会長には、後々の会員が神格化するようなことがあっても、池田氏のように「自らが神格化する」というようなことは全くなかったのである』
(91年宗門『創価学会における池田名誉会長への個人崇拝の誤りを破す』)

02/07
【学会】本部、職員全体会議。



『「折伏戦をしきってゆけば、地方統一選にもその他の選挙にも勝つ。かつて折伏があまりできない時に戸田先生は〃大、そろそろ立ち上がれ〃と仰言(おっしゃ)った。それからできるようになった。本部職員は五老僧になりやすいが絶対になってはならぬ。戸田先生の事業は壊滅状態だった。それを(私が)たった一人で全部やりきった、その福運なのだ。」
(42年2月7日・全体会議)』
(高村萬之助『池田センセーの思いで(18)』慧妙2003年1月1日号)

02/13
公明党第4回党大会。委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任。

02/19
【学会】大学受験生登山会行なわる。

02/22
【学会】本部、職員全体会議。



『「日本の広布を進めてゆけば、本末究竟して、同時に世界広布はできる。海外で指導が行き届かず、事故でも起こしたり、変な人が出たりしては、かえって日本の広布を遅らせる。それで海外においては折伏をストップさせたのだ。」(同年2月22日・全体会議)』
(高村萬之助『池田センセーの思いで(18)』慧妙2003年1月1日号)

03/??
衆院予算委員会。
公明党の矢野書記長、自民党の国会対策費が野党に流れているとし、その使途を追及。



衆議院事務局に勤務していた私が、公明党と関わりを持つようになるのは、園田直・衆議院副議長の秘書をしていたころだ。
 第一次佐藤内閣の解散を受けて行なわれた昭和42年1月29日の総選挙で、公明党は初めて衆議院に候補者を立て、一気に25人もの議員を誕生させた。それまでは地方議会と参議院だけの政党だったが、この選挙で公明党は有力野党として突如、政界に姿を現した。委員長は竹入義勝さん、書記長は矢野絢也さんという布陣だった。
 当時、自民党に最も近いのは、社会党から「第二保守党」と揶揄されていた民社党だったが、第二次佐藤内閣は民社党よりも自民党に近いスタンスをとることを公明党に期待していた。『佐藤栄作日記』には、この時期、人を介して池田大作・創価学会会長と連絡を取り合ったり、佐藤首相本人が非公式に会談したりする記述が散見される。だが、自民党は公明党のスタンスを正確には図りかねていた。
 そんな折、3月に開かれた衆院予算委員会で、自民党は度肝を抜かれることになる。公明党の矢野書記長が、自民党の国会対策費が野党に流れているなどと、その使途について追及を始めたのだ。これに自民党や社会党は大いに慌てた。結局、国対費の闇が解明されることはなかったし、委員会での矢野さんの発言の一部が不穏当だとされて、議事録から削除されるという一幕もあったが、矢野さんは徹底追及の姿勢を崩さなかった。自民党と公明党の仲はこのような関係の中から始まったのである。
(平野貞夫『公明党「汚れた裏面史」全真相』『現代』2004年5月号)

03/10
【学会】会長、臨時本部幹部会で「国際都市東京」のビジョンを発表。

03/16
【学会】、小説『人間革命』第3巻を発刊。



≪83年10月31日山友裁判における池田名誉会長の法廷証言≫
弁護人「さきほど私が証人にお伺いした点ですが、例の人間革命の第3巻は、現在も改訂版がないまま発表されていますね」
池田「そうですか、ずい分なおしてますがね、宗門から言われまして。だから今はほとんど新しいものが、改訂版になっていると私は思ってますが」
弁護人「発売済みの回収作業というものは行なわれましたか」
池田「しない」
弁護人「それはないですね」
池田「宗門からする必要ないとされていますから、回収と言っても、何百冊、何千冊回収できない」

03/23
【学会】本部、職員全体会議。



『「而強毒之とは折伏だ。毒を盛られても御本尊様を疑わない。」(同年3月23日・全体会議)』
(高村萬之助『池田センセーの思いで(18)』慧妙2003年1月1日号)

04/01
【学会】「小中学生文化新聞」創刊。

04/15
都知事選。美濃部亮吉が、松下正寿、阿部憲一(公明党・学会推薦、得票数601,527)を下して当選。初の革新都政の誕生となる。

05/03
【宗門】猊下、学会の第30回本部総会で講演。

05/17
【学会】アメリカ総合本部設置。

05/26
【学会】オランダに支部結成。

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