ニュース番組みたいなタイトルですね。

昨日の晩まで、仕事上のとある懸案事項を考えておりました。いつかは決断して実行しなければならない事項でした。引き延ばさずにすぐに行うべき内容だったので、今日の午前中に実行しようと思い、その方法などを昨晩考えていました。ちなみに最近、わたしが夜に思索する場合、風呂の湯船の中でする場合が多いです。温泉 静かですしリラックスして考えることができます。

昔のわたしでしたら、「よし!唱題してうまくいくように祈念するか」となるのでしょう。しかし、今のわたしの「祈念」は湯船の中で行うわけです。温泉 足はシビれないどころか快適だし、自分の声(唱題)がノイズとなって思考の邪魔になることもない。血流もよくなるので、よく考えられることが自分でも認識できます。

さて、昨日の晩に考えをまとめ、今朝気合いを入れて仕事場に向かいました。そうすると、わたしが動くまでもなく、その懸案事項がスムーズに次々と解決していくのでした。事前にじっくり考え、気合いを入れていたのに、全くの拍子抜けです。そう言えば、先週も別件で同じようなことがありました。

湯船教すごいです!温泉 願った通りになりました。これは本物の信心です。。。となるわけありません。これが不思議と思えてしまうのは、単にわたし達が世の中の全ての動きを観察できないからです。観察できるとすれば、例えば、人の考えや行動を完全に先読みできるとすれば、何事も「偶然」ではなく「必然」あるいは「想定通り」と見えるでしょう。

結局、信仰で不思議な出来事があるように見えるのは、ほとんどの場合、そういうことです。人間の観察はとても不完全で主観が入っているのですから、まるで「祈り」そのものが未来の運や外の環境を左右するように「時々」見えてしまうのです。仏罰なんてある訳がありません。

聖教新聞では、「宗門のイベントは雷雨だった」と書き並べ、まるで自然現象と信仰がリンクしているように主張しています。各家庭では「打倒○○」と祈念させています。そうした行為が、如何に非論理的であるかを知るべきです。人間は感情の生き物ではありますが、論理ができるからこそ人間です。そして感情論は余程親密な間でしか通用しません。