宮本邸電話盗聴事件で、学会の組織的関与が認定されます。
最近でも、敵対組織の通話記録を盗んで組織関与が認められました。
この組織、全く進歩していないようです。

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1988(昭和63)年(6)

12/27
【学会】宮本邸電話盗聴事件裁判の最高裁上告を取り下げる。これにより学会の組織的関与を認定した第二審(東京高裁)判決が確定。

(?)
共産党側弁護団、最高裁に問い合わせて、すべての上告が取り下げられていることを知る。

12/28
【学会】聖教新聞社会面記事に『〃宮本邸盗聴事件〃裁判北條前会長の遺族ら上告取り下げ』の見出しで小さく報道。(公明新聞は一切報道せず。)
「〃宮本邸盗聴事件〃裁判の控訴審判決(東京高裁第4民事部)に対し最高裁に上告していた広野輝夫・竹岡誠治両氏が上告を取り下げたことにともない、北條前会長の遺族らも、このほど上告を取り下げた。これにより、この裁判は一切、終了したことになる。

松井一彦弁護士の話
本件は、元弁護士山崎正友が部下を使って犯した行為であり、故・北條前会長はもちろん、創価学会も何ら関与していないものである。一、二審は全くの事実誤認であって到底、承服できない」
以下、記事は『松井一彦弁護士の話』として、山崎正友の恐喝事件が控訴棄却となり、この事件の一審判決が支持されて、山崎の謀略性が一段と明らかとなった、このことを契機として広野、竹岡両氏が上告を取り下げたので、北条氏の遺族もそれに従った、反論すべき北条本人も死亡していて、これ以上裁判を続け、関係者に迷惑をかけたくないという強い希望が北条の遺族から出たので、残念ではあるが、上告を取り下げる、等と伝える。



『これは非常に突然でしたし、弁護団としては、彼らは最高裁であらそうつもりではないかと予想していたものですから、ちょっとびっくりしました。いったいなんでこんな時期に取り下げてきたのか、率直に言って非常にわかりにくい。むしろ皆さんにいろいろお聞きしたいと思っているくらいです。
 ただ、一つ考えられるのは、創価学会側としても建前上やむをえず上告はしたけれども、彼らの主張が最高裁判所でとおる見込みは、客観的にはほとんどゼロに近い。事実関係は非常に明確に控訴審で確定していますし、憲法違反とか、判例違反というのはまず見当たらない。そうなると、下手をすれば、今年(1989年)の7月におこなわれる予定の参議院選挙の前に上告棄却になる危険性が十分にある。いま、創価学会・公明党は非常な窮地に立っており、混乱していますから、そのうえ『上告棄却』という形で明確な審判が下るのを避けたいということがあるでしょう。
 しかし、創価学会側としては、北条氏が関与していたことを認め、宮本氏と社会に対して謝罪するわけにもいかない。そこで彼らは、『談話』等でもいろいろ弁明しているように、創価学会としては北条氏は関与していなかったと信じている、しかし、北条氏の遺族や広野、竹岡らが個人として取り下げてしまったのはやむを得ないという形にして、自分の責任はまぬがれる、しかも、『上告棄却』という、もっとも明確な審判が下るのも同時に避けるというねらいがあるのではないかと思います。』
(松井繁明89年共産党刊『創価学会・公明党の電話盗聴』)



『盗聴は70年、当時、共産党委員長だった宮本氏宅に対してなされた。共産党はかねてから創価学会批判の急先鋒であり、学会はその動向を把握するため、内部に、後に『情報師団』と呼ぱれることになる秘密組織をつくった。
「組織は北条浩副会長(当時。後に会長)の指示によって作られ、責任者には学会の顧問弁護士だった山崎正友氏が就いた。宮本氏側は電話に雑音が混じることなどから盗聴に気付いて警察に届けたが、その時点では学会の関与は分からなかった」(共産党関係者)
 ところが、80年になって、池田大作名誉会長の側近となっていた山崎氏が突然、造反。宮本氏宅への盗聴を暴露したのである。
 盗聴事件は刑事事件としてはすでに時効となっていたため、宮本氏が学会の北条氏と山崎氏、そして竹岡容疑者ら『情報師団』のメンバー計5名を被告として損害賠償を請求する裁判を起こした。
 竹岡容疑者は当時、青年部副男子部長を務め、学会ではエリートとして知られていたが、裁判では盗聴の事実を認めた上で、「すぺては山崎氏の指示によるもので、北条氏ほか学会の組織的関与はなかった」と主張した。しかし、裁判所は一審、二審とも北条氏の関与を認め、学会の組織的犯行だったと断じたのである(学会側は上告したが取り下げ、判決確定)。』
(週刊ポスト2004年3月12日号)



『山崎氏によると、竹岡容疑者は、「山崎師団」と呼ぱれたグループの中心メンバーで、全共闘運動が華やかな時期に学生組織の設立に携わったり、日蓮正宗の信徒団体で創価学会を批判している勢力などへの盗聴工作にかかわったりした、という。
 これに対し、創価学会は宮本氏への盗聴について、組織としての関与を否定。「竹岡氏は山崎氏の下で働いていたが、その具体的な中身は知らない」と学会関係者もいう。
 宮本氏への盗聴後は、表の職務に従事し、「同世代でトップ10級でないとなれない」(関係者)とされる副男子部長など要職を歴任した。』
(AERA2004年3月8日号)



竹岡容疑者の名前がマスコミ報道に現れるのは、これが初めてではない。1970年、共産党委員長だった宮本顕治氏の東京都杉並区の自宅電話の電話線に仕掛けられた盗聴器が発見された。10年後の80年、創価学会元顧問弁護士が、週刊誌などで盗聴を告白。これを受けて宮本氏は最高幹部や顧問弁護士らを相手に損害賠償訴訟を起こした。一審、二審とも宮本氏側が勝訴し、被告らは上告したものの、その後取り下げたため、「創価学会の最高幹部が盗聴に関与していた」とする東京高裁裁判決の事実認定が確定した。
 この顧問弁護士の元で、盗聴を実行していたのが、竹岡容疑者だったのだ。
 あれから三十数年。竹岡容疑者は、どんな経緯で、今回の恐喝未遂事件にかかわるようになったのだろう。
 創価学会関係者によると、竹岡容疑者は昭和50年代に学会本部の職員となり、一時期は副男子部長という重要な役職まで務めたという。
 この関係者が言う。
「副男子部長には、10人くらいしかなれません。男子部には社会人1年生から入って、35?40歳くらいまで所属します。つまり彼は、この世代の中でベスト10くらいに入る地位にあったわけです」
 しかし、事件発覚後は特に目立った役職につくこともなく、98年11月には勤務していた聖教新聞社を退社。同時に本部の職員もやめた。最後の役職は聖教新聞社広告局の「担当部長」。いわゆる部長待遇の扱いだったらしい。
(週刊朝日2004年3月12日号)



そもそも盗聴事件とはどういうものだったのか。
 昭和40年代半ば、学会は、藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』出版に際し、言論妨害問題を起こした。これに対し、世間では批判の嵐が吹き荒れ、学会はこの対処に悪戦苦闘。そんな中でも、批判の急先鋒になっていたのが日本共産党だ。この共産党対策が必要と考えた学会側は敵方の動きを知るため、当時の宮本委員長の自宅電話に盗聴器をしかけたのである。この総指揮をとったのが、元学会の顧問弁護士で、池田名誉会長に重用されていた山崎正友氏だった。ご存じ、池田名誉会長が当時、〃四面楚歌君がおわせば王の道〃との歌まで贈った側近中の側近だ。
 山崎氏は学会の学生部からメンバーを選抜し、「山崎師団」と呼ばれた謀略部隊を編成した。この中でもとりわけ中心的な働きをしたのが、件の竹岡と、当時、学生部の主任部長だったH氏、そして常任幹事で、現在は学会系の葬儀会社を営むK氏の3人である。
「山崎氏のもと、学生たちは謀議を重ねたそうです。盗聴器を仕掛ける実行役を果たしたのが、竹岡とH氏です」(同) しかし、さして成果もないまま、盗聴器の取り付けが発覚。当時、事件は迷宮入りになったが、その10年後、学会と袂を分かった山崎氏が盗聴工作を〃自白〃する爆弾告白を行い、大騒ぎに。竹岡たちの非合法活動の全貌が白日の下に晒されたのである。ここは今一度、当の山崎氏に語ってもらおう。

政界に急接近
「その頃、私は学会で、尾行、張り込み、電話盗聴などの手段による情報収集を行う責任者でした。そのために借りた事務所には、池田氏も何度か立ち寄り、私たちの仕事を嬉しそうに見ていました。こうした作業の中で実行されたのが宮本委員長の自宅の電話の盗聴だったんです。Hは機械に強く、彼が中心になって盗聴器を作りました。竹岡は体が丈夫で、プレッシャーに強かった。で、竹岡とHの2人が宮本邸の横の電柱によじのぽり、盗聴器を仕掛けたのです」
 こうした非合法活動が露見したものの、すでに刑事事件では時効が成立。そこで共産党は、当時の副会長で、後に会長となる北条浩氏(故人)や実行犯などに損害賠償を求める民事訴訟を起した。裁判所は、これを北条氏の了承のもと、山崎氏が行った、学会の組織的犯行と断罪し、100万円の支払いを命じたのだ。
 その実行犯の竹岡が、今回また、情報に絡んだ犯罪で捕まったわけである。彼は一体どういう人物なのか。
 竹岡は広島出身。中央大学卒業後、学会本部の専従職員になった。
「盗聴事件が発覚しなかったことをいいことに、竹岡はその後も出世していきました。中枢の組織センターに配属され、将来を嘱望されたエリート中のエリートだった。昭和53年には創価班全国委員長、翌年には青年部の副男子部長も務めました。この時の男子部長が今をときめく公明党のプリンス、太田昭宏代議士です。ちなみに副男子部長は全国から10人しか選ばれない。つまり、彼は青年部のトップテンに入っていたということです。竹岡は池田名誉会長からも可愛がられた。
 名誉会長は彼の子供の名付け親にまでなっています」(学会古参幹部)
 池田氏、そして今の野崎勲副会長に見込まれた太田・竹岡コンビは、トントン拍子に出世する。そんな順風満帆の竹岡の学会人生に狂いが生じたのが昭和55年である。前述の通り、山崎氏が盗聴事件を公表したからだ。
「この時、学会内部でも、彼らを除名すべきだ、という声があがりました。しかし、上層部にそんなことができるわけがありません。でも、さすがに本部に置いたままにもできず、竹岡は聖教新聞に出されたのです。
それでも広告局の担当部長にして、それなりの処遇をしていたんです」
というのは、別の古参幹部。とはいえ、それも所詮は組織防衛のためだとか。
「ぞんざいに扱ったり、切り捨てたりすれば、造反されて、第2、弟3の山崎正友氏になりかねない。謀略部隊にいた竹岡に内部の悪事を暴露されたら、たまりません。池田名誉会長らはそれを恐れたのではないか」
 しかし、その竹岡は平成10年、聖教新聞を突然、退社。
 この頃から急速に政治家に接近する。公明党ばかりか自民党の議員にも近づき、政界人脈を広げていった。
「もっぱら永田町に出入りして、自分の商売に勤しんでいたようですね」(同)
(週刊新潮2004年3月11日号)

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