盗聴の組織関与が認定されても、学会から見れば法難なのだそうです。
その性格、人間革命した方がいいのでは?

昭和63年終了。いよいよ平成です。平成元年を最後にしたいと思います。

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1988(昭和63)年(7)

12/28
竹岡容疑者の経歴を追っていくと、バリバリの創価学会員だったことが分かる。
 1948年12月、広島県生まれ。中央大学法学部を’71年3月に卒業した後、同年4月に新生会研究所に入社する。その後、’74年に創価学会系の出版社『第三文明』に入社。’76年創価学会本部総合センター(学会本部職員)に転出し組織業務の担当となった。
 その後、青年部副男子部長や創価班委員長(創価班はかつての輸送班。静岡県・富士宮市の総本山・大石寺に参拝する信者の輸送などを務めた男子部の組織)を歴任した。
 だが、創価班委員長時代の評判はあまり芳しくない。
「信者からの評判は良くなかった。威張ってるし、傲慢で鼻持ちならないという声が多かったのです。そんな大多数の批判が上がっても、彼の地位は万全でした。なぜかは、後で分かりましたが…」(元会員)

盗聴行為最中に幹部に出世
この元会員が後になって知ったというのは、犯行(’70年)から10年目の’80年6月に明らかになった、日本共産党・宮本顕治委員長宅への盗聴器事件だ。犯行に及んだ首謀者は、山崎正友・創価学会顧間弁護士(当時)をリーダーとする、いわゆる創価学会の〃山崎軍団〃だった。
 盗聴実行グループは、宮本宅電話盗聴の拠点としてマンションを借りたが、この中の有力メンバーの1人が竹岡容疑者だったのである。
 当時、創価学会の「言論出版妨害事件」に対する共産党の追及は激しく、創価学会側の防戦の一環として仕掛けられた、というのが今日では定説となっている。
 ただし、創価学会の盗聴はこれだけではなかった。その後、「妙信講」はじめ「立正佼成会」など、反創価学会教団のスパイ工作など6件に及ぶ盗聴も実行している。
 共産党は宮本委員長名で、創価学会の北条浩会長(当時)や山崎元顧問弁護士とその配下の竹岡容疑者、広野輝夫容疑者らのグループを被告とし、損害賠償請求訴訟を起こした。その結果、東京地裁(’85年4月)に続いて東京高裁(’88年4月)は、いずれも創価学会の組織的関与を認める判決を下している。
「創価学会側は最高裁に上告したものの、裏で取り下げて損害賠償金を支払いました。しかし、謝罪は一切していません」(共産党関係者)
 この時の判決の中で、竹岡容疑者は深夜、電柱に登って電話線端子に盗聴器を取り付けるなど実行部隊の中心だったと指摘されている。だが、驚いたことに、「’78年に、創価班全国委員長、翌年には青年部副男子部長になっています」(創価学会広報)と、盗聴行為の最中に幹部に抜擢され、出世している。
「平和と人権を強調し、社会の模範となるべき大宗教法人が、電話盗聴で裁判に訴えられ、しかも、その事実が認定されたケースとしては、わが国の歴史上たった1件しかありません。それがこの事件です。しかも、被害者は公党の最高幹部。政治活動の自由を陰で侵害するという重大事件です。竹岡は、さすがに盗聴発覚後は表面的には退いています。普通なら除名ですよ。長い間幹部であり続けられたのは、社会的には犯罪者でも内部では功労者だからです。とくに(創価学会にとって)仏敵である山崎元顧問弁護士を追い落とした功績は大きいようです」(創価学会に詳しいジャーナリスト)
(週刊実話2004年3月18日号)
※広野輝夫・竹岡誠治は、この時点で第三文明社に勤務している。

12/30
『赤旗』、松井繁明弁護士の『創価学会〃最後の謀略〃』を掲載。

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『それはともかく、オウムはその太田(※太田龍)がコラムを連載していた月刊誌に接触したのである。それは、現在では廃刊になっている『新雑誌X』(後に『新雑誌21』と改題)という雑誌だった。
 この雑誌は70年当時、学生運動の盛んな頃にもてはやされた月刊誌『現代の眼』の元編集長だった丸山実(故人)が独立して出していたものであった。丸山によれば『新雑誌X』の編集部を訪れたのは、オウム事件で名前の知られた弁護士の青山吉伸や新実智光ら数人であり、時は昭和63(1988)年頃のことである。
(中略)
購入していったバックナンバーは、太田のコラムが掲載されている号すべてと、ユダヤ・フリーメーソンなど陰謀論の記事が掲載された号などで数10冊あったという。
 丸山によれぱその後、オウムは何度か電話してきたものの、それ以上の接触はしてこなかったという。
 一方、そのころの太田龍は、自分のかわりに妻を入会させていた創価学会から離れ、玉井礼一郎なる人物が主催する反創価学会系のミニ教団に近づいていたようである。
 当時の太田は自分の発行しているミニコミ誌『コンパッション』や『地球維新』、そして前述の『新雑誌X』などで、盛んにアメリカによる国家的陰謀として、BC兵器、とくに毒ガスによる攻撃について繰り返し繰り返し言及していた。
(中略)
この時期の太田はオウムだけではなく、いろいろなミニ宗教・オカルト団体・カルト系団体と同時並行して関係していたともいう。
(中略)
たとえば、オウムによる他の宗教法人買収の動きが話題になったとき、テレビなどで盛んに自分が依頼されたような語をしていた宗教プローカー・中杉弘の平和神軍。
 富士山が大爆発するなどという予言をして、見事にはずした小島(万師)露観の古代帝国軍Z(ザイン)。
 前出の玉井礼一郎の妙法蓮華教(最近はブラジルの奥地で地底王国シャンバラの秘宝を手に入れたと主張している)。
 詐欺まがいの反創価学会活動で女性達に金銭被害を与えたミニコミ誌『福田』の南条白山こと渡辺隆(太田の制定した「第一回太田龍賞」を創価学会・池田大作批判によって受賞するが、のちに太田から「創価学会のスパイ」呼ばわりをされケンカ別れする。現在は消息不明)。
 渡辺と組んで反創価学会活動をし、渡辺に被害を受けた女性らにセクハラをした日蓮正宗僧侶・高橋公純(高橋はその後日蓮正宗の僧侶をやめて、韓国・台湾などで独自に信者をつくっている。とくに韓国では、日本の戦争責任について袈裟衣すがたで土下座して詫びている模様が、何度もテレビで報道されている。また高橋は日蓮正宗時代から頻繁に韓国や台湾に渡航しているが、日蓮正宗内部では外国為替法違反の疑惑も噂されているという)。
 元生長の家本部講師で、その後GLAというミニ教団に移り、さらに分派独立した園頭広周(故人)がつくった国際正法協会なる宗教団体(園頭が病気で倒れたときに、教団の主導権争いで暗躍したのが、元創価学会顧問弁護士の山崎正友と亡くなった内藤国夫であったことは関係者の間では有名である)。』
(岩尾啓一「オウム真理教の凶暴化に影響を与えたのは革命思想家・太田龍だった!」『噂ウラの裏』2001年3月号)

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公明党の渡部一郎衆院議員、『国連支援交流協会』(FSUN)を設立。

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