「なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ。(中略)反逆者は『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ!」(池田大作)

永遠の指導者の素晴しい御言葉です。

「信濃町六老僧」の一人と本部内で揶揄される八尋さん、ルノアール絵画で頑張った年ですね。

『創価学会はこの事件が発覚したとき、「絵を見てくれといわれた」「取引とは無関係」と、第三者的な発言をしていたが、読売新聞(同年4月5日)に、「創価学会副会長が同席」と、スッパ抜かれて初めて態度を軟化し、・・・』

後の聖教地下金庫事件でもそうですが、学会ってバレなきゃ何でもありですよねえ。

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1989(昭和64年=平成元年)(2)

03/07
中国、ラサに戒厳令。



『虐殺・拷問の責任者
胡錦濤氏の豪腕は、それから遺憾なく発揮されることになる。
 89年の3月8日と9日。チベットの旧正月であるこの日は、チベット人があちこちに集まる日であり、例年、不穏な動きがある。チベット暴動30周年にあたるこの年は、パンチェン・ラマ10世が死去したことも重なって大きな暴動が発生するのである。
『チベット問題を考える会』代表で僧侶でもある小林秀英氏がいう。
「89年3月8日、胡錦濤は、拡大する暴動に、新中国発足以来、初めての戒厳令を発令するのです。最初の2日間で200人のチベット人が殺され、その後の取り締まりで1ヵ月間におよそ1000人が死亡したと亡命チベット政府は発表しています。当時、日本人の観光客も現地にいたのですが、若い兵士が広場に入って来て、いきなり民衆に発砲したり、ホテルや建物にまで向かって乱射する様子が目撃されています」
 そして捕まったチベット人に対する拷問は筆舌に尽くし難いものだった。
「通常は牛や馬などを飼い慣らす時に使う強い電流が流れる〃電気棒〃彼らは人間に使ったのです。凄まじい電流が流れますから、これでチベット人の分離思想や独立思想を破棄させようというわけです。さらに身体を天井から吊り下げて、その下で火を焚かれて拷問を受けた人や、極寒の中、裸で外に立たせ、その上で水を浴びせかける拷問を受けた人もいる。また、手足の骨を折られて身体が部分的に麻痺してしまった囚人や、〃チベットに自由を〃と叫んだために射殺された囚人など、悲惨な例は数えされません。豚肉を食べない僧侶や尼僧に、わざと古くなった野菜と豚肉を食べさせたり、親中田のスローガンを叫ばせたり、ダライ・ラマを批判させたり、中国の愛国歌を歌わせたり、そんなことも獄中でおこなったそうです。胡錦濤といえば、この過酷な弾圧の張本人という思いしか我々にはありませんね」
が、逆にこの鎮圧成功によって北京では胡錦濤の評価は一気に高まるのである。そしてわずか3ヵ月後、天安門事件(六・四事件)の際には、これが戒厳令発令のモデルケースとされるのだ。
「北京に戒厳令が敷かれることに真っ先に同意の電報を打ったのが、ほかならぬ胡錦濤。まさに彼の出世はここから始まったのです」(小林氏)
中国問題に詳しいジャーナリストの相馬勝氏もいう。
「ソフトな風貌からは想像できない胡錦濤のこの強硬な姿勢は、トウ小平ら当時のトップに絶大な信頼を勝ち得ることになり、チベットから戻った92年、一気に3段飛びで共産党中央政治局常務委員に選出されるのです。基本的に彼はマルキストですから、出世と保身のためには市民を犠牲にすることを何とも思っていませんね。実は、胡錦濤は失脚した胡耀邦の派閥に属しており、チベット赴任は、一種の左遷だったのですが、逆にここでの弾圧で出世コースに乗ったことになります」』
(週刊新潮2002年12月5日号)

03/12
【学会】名誉会長、埼玉指導で
「『仏法は勝負』にどれほど深い意義があるか、皆わかっていない。物事は正邪ではない。勝つか負けるかなんだ。全員が『勝つ』と強く決めていけ!勝つか負けるか。やられたらやりかえせ。世間などなんだ!私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。私だけ戦っている。強気でいけ!強気で勝つんだ!強気、強気、強気でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。
(中略)
なんでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴っていけばいいんだ。
(中略)
反逆者は『この野郎、馬鹿野郎』でいいんだ!」
等と述べる。

03/28
三菱商事、帝国ホテル桂の間で、ルノワールの「浴後の女」と「読書する女」を36億円(1枚1億円の無横線小切手、36枚)で買いとる取引きをする。
 これには売り手側=画商、「アート・フランス」石原社長、「立花」立花取締役、マネジメント会社役員、企業コンサルタントら数名、買い手側=三菱商事社員、東京富士美術館・高倉達夫副館長、創価学会・八尋頼雄副会長が同席。三菱商事はフランス人の署名のある領収書2枚と鑑定書、2点の絵画を受け取る。



『2点の絵画が東京富士美術館に渡ったのは1年半後の昨年(90年)9月18日。「浴後」を34億円、「読書」を7億円の計41億円で三菱商事から購入した。
 疑惑の焦点は三菱商事の振り出した預金小切手36枚(額面1枚1億円)の行方。21枚は絵画代金として流れ、港区南麻布の画商に18枚、石原社長に仲介料名目で3枚が渡った。しかしこの二人も取引後、古物営業法に義務付けられた古物台帳に2点の販売を記載していなかった。
 残る15枚が使途不明とされ、うち14枚は、架空名義で換金されており、疑惑が増幅された』
(91年7/25付毎日新聞)



『いがけないミステリアスな事件に拡大。実はいまだに解明されていない部分があるのだ。
 事の経過をざっと記してみよう。89年3月28日午後、帝国ホテル4階「桂の間」に、ルノワールの絵画「浴後の女」「読書する女」の二枚が持ち込まれた。同室には、8人分のコーヒーを運んだホテルボーイを除けば次のメンバーが顔を揃えていた。
一、絵画の買い手。現場で36億円を支払った「三菱商事」デベロッパー事業部のO部長代理。
二、最終的な買い手で、絵画の鑑定役を兼ねた創価学会系の「東京富士美術館」T副館長。
三、同じく、東京富士美術館の〃スポンサー〃的役割を果たした創価学会のY副会長。
四、絵画売り手の画商「アートフランス」のI社長。
五、「浴後の女」(50号)の持ち主で市中金融業の部長。
六、絵画の仲介役、帝国ホテル地下で陶器店を開業する女性役員、T女史。
七、同じく仲介役、企業コンサルタント会社相談役のM氏。
八、同、情報マネジメント会社の取締役、K氏。
この8人の目が光る密室の部屋で、売り手の画商「アートフランス」が、三菱商事に21億2500万円で売却したと延言すれば、買い手の三菱商事は、国税当局に26億円で購入と説明。その差額、正確には14億7500万円の〃行方〃が問題になったのである。
(中略)
いくつか疑問点をあげてみよう。
 第一に、三菱商事が支払った36億円は、額面1枚1億円の無横線小切手(預金小切手)であった。巨額の現金を持ち歩く危険さと不便さが解消される無横線小切手は、銀行が自行あてに発行するもので、現金同様の信用度を持つ。その一方で、盗難にあったり、拾った人にも無条件で支払われるという危険性も伴う。つまり、当日、三菱商事の部長代理は36億円の現金を持って、帝国ホテル界隈を歩いていたことになる。どうしてこんな危険を冒したのか。
 第二に、絵画を購入した三菱商事の窓口であるデベロッパー事業部は、絵画とは無関係で、本来の事業は、土地開発とか建設を担当している部署である。まるで、畑違いの商取引なのだ。
 第三に、画商と三菱商事の取引に、なぜ創価学会の副会長が同席していたのか。当初、創価学会はこの事件が発覚したとき、「絵を見てくれといわれた」
「取引とは無関係」と、第三者的な発言をしていたが、読売新聞(同年4月5日)に、
「創価学会副会長が同席」
と、スッパ抜かれて初めて態度を軟化し、翌日の聖教新聞にこう報じた。
「昭和63年12月中旬か下旬ごろ、企業コンサルタント会社社長から、弁護士で学会副会長である八尋頼雄氏に対し、ルノアールの絵を学会か美術館に紹介したいとの話があった。価格は『浴後の女』『読書する女』の二点で合計36億円で、権威ある鑑定もあるので心配ない。……八尋氏は美術品の話であるので、これを東京富士美術館の高倉達夫副館長に紹介した。同美術館は検討の結果、ルノアールの大型作品は数少ないものであり、館蔵品として是非ほしいが、すぐには資金のメドがつかない」そこで、八尋氏が、知り合いの三菱商事社員に話し、同社が検討のうえ、これを購入することになった、と言う。
 その後、学会から東京富士美術館が所要資金の寄付を受け、
「平成2年9月18日、『浴後の女』を34億円、『読書する女』を7億円で三菱商事から購入し、最終的にその所有権を取得した」
と言うのだ。要するに学会(東京富士美術館)は、三菱商事が26億円で購入した絵画二点を、5億円上乗せして41億円で購入したのである。
 この絵画取引疑惑では国税庁、警視庁も捜査に動き、仲介業者など2社5人が起訴されたが、消えた15億円のうち、3億円の行方がわからないまま捜査が終了している。この絵画取引疑惑が発覚してから3か月後の(91年)7月、創価学会が「損失補填」4億5700万円を受理していたことが判明した。学会は証券会社からの「損害賠償である」と弁明したが、これで学会が、70億円もの株取引をしていたことが明るみに出ることになった。』
(『創価学会財務部の内幕』P122?123)

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