凝りもせず、恐いもの見たさもあって、今年のSGI提言を読んでみました。笑顔

この提言は、学会内部でどれほど読まれているのでしょうか?学会員はしっかり読むべきだと思います。特にバリバリさんは、しっかり読みなさいよ。池田提言ですよ。

少しずつ見てみましょう。いきなりズッコケます。

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私が仏法者として一番憂慮していることは、こうした風潮に乗じて昨今の"原理主義への傾斜"ともいうべき現象、心性が、随所に顔をのぞかせていることであります。
(中略)
そこでは、万事に「原理」「原則」が「人間」に優先、先行し、「人間」はその下僕になっている。
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創価学会が"原理主義への傾斜"を否定するのは、暴走族が暴走運転を否定するのと同じですよね。

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人間は、ともすれば手っ取り早い"解答"が用意されている原理・原則に頼りがちです。
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これ(リンク)に似たことを言ってますね。伝家の宝刀「先生はこう述べられているんだよ」という指導が否定されてます。

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シモーヌ・ヴェイユの比喩(田辺保釈『重力と恩寵』筑摩書房)を借りれば、人間や社会を劣化させてやまない「重力」に引きずられ、人間性の核ともいうべき"汝自身"は、どこかに埋没してしまう。私どもの標榜する人間主義とは、そうした"原理主義への傾斜"と対峙し、それを押しとどめ、間断なき精神闘争によって自身を鍛え、人間に主役の座を取り戻させようとする人間復権運動なのであります。
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この提言の代筆者は、恥ずかしくないのでしょうか。いや、恥ずかしかったでしょうね。わたしの希望的推測ですが、代筆者は、この提言が外部の目に触れることによる恥辱よりも、上記のような良心を学会内部で育てることが先決だと考えているのでしょう。その恥辱も「表面上の執筆者」の池田さんにいくわけですし。わたしがそう推測するのは、以下の部分、

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何といっても、原理主義という言葉が最も頻繁に使われるのは、宗教のあり方をめぐってであるからです。
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ここまで述べてあって、「自分自身の宗教としての在り方」を問わない学会員がいたら、その人に何を述べても通じません。要するにネジがたくさんハズれています。この提言もそう述べています。以下、

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それ故、私は「21世紀文明と大乗仏教」と題するハーバード大学での2回目の講演(1993年9月)で、宗教を持つことが、人間を「強くするのか弱くするのか」「善くするのか悪くするのか」「賢くするのか愚かにするのか」という視点を、宗派性を超えて導入すべきであると、自戒の念を含めて、強く訴えたのであります。宗教が人々の平和と幸福に資するためには、何よりもその宗教が、人間を「強く」し「善く」し「賢く」するよう促し、後押しするものでなければならない。
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「自戒の念を含めて」とありますやうに、「自戒」は「賢明」なことなのでしょうから、自身を顧みることをしないバリバリさんは「愚か」だということです。池田さんに「バカ」と言われてますよ、バリバリさん。同時に、マニュアルにないことには「弱い」バリバリさん、組織のためなら法律や迷惑も気にしない「悪い」バリバリさん、池田提言によって否定されていますよ。さんざん煽られ、バリバリ活動した結果、ハシゴをはずされてますよ。

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急速に進むネット社会に漂う、ある種の手詰まり感は、情報科学のもたらすコミュニケーションの拡大がそのまま「地球上の魂を……一つに結びつけ調和させる」ことにつながるとする楽観論など、現状は皆無に近いことを物語っているといえましょう。
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「ある種の手詰まり感」ってアバウトな。。。ネットと同じ大量通信機器である衛星放送(幹部会)では、マンネリ、自己宣揚、言語・意味ともに不明瞭なスピーチ。。。手詰まり感・疲労感が凝縮されてますね。

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ミシュレのいう普遍的な「正義」ではなく、あらゆる次元の個別的、部分的な「正義」が、人間の「弱小さ」につけ込むように己の正しさを言い募り、角突き合わせ、争っている──"原理主義への傾斜"を憂慮する所以であります。部分的「正義」の先にどんな悲惨が待ちかまえているかを知らずに、人間はなかなかその誘惑に勝てない。
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「その誘惑」に負け続ける学会員さん、よく読みましょう。あなたがたの「部分的正義」でどれだけの人に迷惑をかけ、自身の人生を棒に振っているか。あなたがたは自身の「正義」を説明もできない未熟さを自覚しましょう。「先にどんな悲惨が待ちかまえているか」想像しましょう。

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特に、対話と対極に位置する狂信や不寛容の歴史を引きずる宗教の分野にあっては、ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話こそ、まさに生命線であり、対話に背を向けることは、宗教の自殺行為といってよい。したがって、仏法を基調とする人間主義を推し進めるにあたって、いかに狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだかろうと、この、対話こそ人間主義の"黄金律"であるという旗だけは、断じて降ろしてはならないと訴えておきたいと思います。
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代筆者は、よく書いてくれました。どう考えても学会内部向けとしか読めません。創価学会は「狂信や不寛容の歴史を引きずる宗教」であり、「ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話」が不可能で、「学会以外はダメ」という「狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだか」っている宗教そのものです。

提言の後半は、環境と人権について述べられていますが、例によって「○○を提案する」「○○の創設を呼びかける」といった、「言うだけ」の無責任さに溢れています。富士桜墓宛では、法律を捻じ曲げ、山を切り崩して環境破壊を行い、脱会者にはストーカーまがいの人権蹂躙を行う団体が、環境と人権の保護を訴えている。まるで、暴走族が。。(以下略)。

いやあ、面白すぎるではないですか、池田提言。完璧に学会員を否定しているのに、読者であるはずの学会員は、おそらく読んでもいないから「すごい!」としか考えていない。この提言を片手に対話している学会員がいたら見てみたいですね。

矛盾に満ちたこの提言、学会内部で問題意識を育てるには大変価値のあるものです。