わたしは、学会教義の中で「三障四魔」が一番嫌いです。
以下は、創価学会における「三障四魔」の定義です。

----------
仏道修行の途上に起こる障害のなかに、代表的なものとして「三障四魔(さんしょうしま)」があります。すなわち、三種の障(さわ)りと四つの魔です。

「障」は、障り、つまり邪魔をするという意味で、仏道修行を阻もうとする働きです。「魔」とは、仏道修行をしようとする生命をむしばみ、心を乱し、生命そのものの輝きを奪う働きです。

「三障」には、「煩悩(ぼんのう)障」「業(ごう)障」「報(ほう)障」の三つがあります。

「煩悩障」とは、貪(むさぼ)りや瞋(いか)り、癡(おろか)といった、自分自身の迷いの生命(=煩悩)が、仏道修行を妨げることです。目先の欲望に振り回されて修行に励めないとか、感情にとらわれて信心をやめてしまうなどが、その例といえます。

「業障」とは、悪い行いが仏道修行を妨げることです。大聖人は、「業障というのは、妻子などによって障りがあらわれることである」(御書1088ページ、趣意)と仰せです。これは、例えば妻子が信心に反対することなどをいいます。

最後の「報障」は、過去世の罪業による悪い果報が信心修行を妨げることをいいます。御書には「報障というのは、国主や父母などによって障りがあらわれることである」(同ページ、趣意)と仰せです。
----------


この「三障四魔」という教義には、以下の点で大きな問題があります。

-「なぜ反対されているか?」という問題意識が全く欠如していること
- むしろ相手を「障り」、つまり「障害物」として捉えようとすること

学会が未だにこの教義を掲げているのは、学会員を精神的に拘束するために必要だからです。盲信にはもってこいの教義ですよね。少なくともこれを教義としている間、学会は(オ)カルトと言われても仕方ないでしょう。

学会員がこの教義にハマると、以下のような行動をします。

- 家族(両親・配偶者・子供)の存在を軽視する
- 恋人の存在を軽視する
- 社会を軽視する

こうした思考・行動が進むと、「あたなにとって最も大切なものは?」との質問に対し、「広宣流布」とか「池田先生」とか臆面もなく答えるような人になってしまいます。重症ですね。

重症患者は、家族や恋人を失うまで、あるいは罪を犯してしまうまで、突き進むことが多いです。失って初めて学会教義のカルト性をなんとなく認識し始めますが、社会復帰にはかなりのリハビリ期間が必要になり、重い「禁断症状」との戦いになるようです。

身内や恋人をそのような状態にされた人々は、学会に対する憎しみを増大させます。当の本人も社会復帰した後に、こんな「クスリ」を自分に与えた学会を恨みます。学会、および学会員は、日本全国でこうした強烈な憎しみが充満し渦巻いていることを認識し、覚悟しておくべきでしょう。

90年代までの学会は、「学会は庶民の味方、敵は自民党、国家権力、マスコミ」と言って学会員を煽ってました。そして、草の根レベルの運動で大きくなりました。現在、草の根レベルで学会に対する憎悪が半端ない速度で膨らんでいます。今や庶民が「三障四魔」状態です。学会は「味方は自民党、国家権力、マスコミ、敵は庶民」と宣伝したらどうでしょう。

まあ、権力に擦り寄らないと、悪事が一気に暴露されますから、「延命策」としては最適戦略なんですけどね。ただし、短期的な延命策にしかなりませんから、庶民を踏み台にしたツケの大きさを考えられないほど信濃町も切羽詰まっているんでしょう。