価値[再]創造

創価学会における素晴しき体験と
めぐり合った会員や幹部との思い出を基に
価値観を再構築していきます

創価学会

夢を見た

創価とか池田とか、社会的にも個人的にも興味が失われてしまったコンテンツにはエネルギーを割く必要なんてないんですけれども、久々に夢を見たので遊び半分でやって来ました。

どこか広い会場で開催されている会場に参加していました。夢の中の主体は、わたしであるような、わたしでないような、でも一応自分の意志で行動の制御はしているような感じでした。映画の「マルコビッチの穴」のような感じでしょうか(マニアック)。

場面は何かの表彰式で、表彰を受ける人が10人くらい並んでいて 、わたしはそのうちの1人でした。財務か何かで貢献した人に対する表彰のようです。何か感謝状のようなものをもらいました。

おそらく夢はこの設定から始まっていて、わたしはそれをもらって席に戻るところから具体的な動きがありました。わたしはその賞状を見るなりふつふつと怒りが湧いてきて、

「多くの時間・労力・財産の提供の対価がこの紙切れ1枚か!!!いい商売だな!!」

と、壇上の幹部に向かって大声で叫びました。そしてその賞状をビリビリに破り、会は終わっていないのに会場を去るわけですが、何十人かの人が立ち上がり、ぞろぞろと一緒に会場から出て行きました。

それから間もなく目が覚めたわけですが、とてもスッキリした目覚めでした。目覚ましの直前に勝手に目が覚めました。2015年の最後の日に、わずかに残っていた膿が出て、本当に新しい年が始まるような気がします。少なくともわたし個人では。

まだ創価で悩み続けている人がいると思います。大事なのはあなたの理性です。冷静に理性を働かせれば、創価など必要ないことが分かるはずです。勇気を持ちましょう。創価に関係ない人が幸せになっています。わたしをはじめ、ほとんどの学会批判者は何の罰も受けていません。むしろ自由になって楽しんでいます。当たり前です。

あなたの貴重な時間・労力・財産は、あなたと家族のために使いましょう。 

三障四魔

わたしは、学会教義の中で「三障四魔」が一番嫌いです。
以下は、創価学会における「三障四魔」の定義です。

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仏道修行の途上に起こる障害のなかに、代表的なものとして「三障四魔(さんしょうしま)」があります。すなわち、三種の障(さわ)りと四つの魔です。

「障」は、障り、つまり邪魔をするという意味で、仏道修行を阻もうとする働きです。「魔」とは、仏道修行をしようとする生命をむしばみ、心を乱し、生命そのものの輝きを奪う働きです。

「三障」には、「煩悩(ぼんのう)障」「業(ごう)障」「報(ほう)障」の三つがあります。

「煩悩障」とは、貪(むさぼ)りや瞋(いか)り、癡(おろか)といった、自分自身の迷いの生命(=煩悩)が、仏道修行を妨げることです。目先の欲望に振り回されて修行に励めないとか、感情にとらわれて信心をやめてしまうなどが、その例といえます。

「業障」とは、悪い行いが仏道修行を妨げることです。大聖人は、「業障というのは、妻子などによって障りがあらわれることである」(御書1088ページ、趣意)と仰せです。これは、例えば妻子が信心に反対することなどをいいます。

最後の「報障」は、過去世の罪業による悪い果報が信心修行を妨げることをいいます。御書には「報障というのは、国主や父母などによって障りがあらわれることである」(同ページ、趣意)と仰せです。
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この「三障四魔」という教義には、以下の点で大きな問題があります。

-「なぜ反対されているか?」という問題意識が全く欠如していること
- むしろ相手を「障り」、つまり「障害物」として捉えようとすること

学会が未だにこの教義を掲げているのは、学会員を精神的に拘束するために必要だからです。盲信にはもってこいの教義ですよね。少なくともこれを教義としている間、学会は(オ)カルトと言われても仕方ないでしょう。

学会員がこの教義にハマると、以下のような行動をします。

- 家族(両親・配偶者・子供)の存在を軽視する
- 恋人の存在を軽視する
- 社会を軽視する

こうした思考・行動が進むと、「あたなにとって最も大切なものは?」との質問に対し、「広宣流布」とか「池田先生」とか臆面もなく答えるような人になってしまいます。重症ですね。

重症患者は、家族や恋人を失うまで、あるいは罪を犯してしまうまで、突き進むことが多いです。失って初めて学会教義のカルト性をなんとなく認識し始めますが、社会復帰にはかなりのリハビリ期間が必要になり、重い「禁断症状」との戦いになるようです。

身内や恋人をそのような状態にされた人々は、学会に対する憎しみを増大させます。当の本人も社会復帰した後に、こんな「クスリ」を自分に与えた学会を恨みます。学会、および学会員は、日本全国でこうした強烈な憎しみが充満し渦巻いていることを認識し、覚悟しておくべきでしょう。

90年代までの学会は、「学会は庶民の味方、敵は自民党、国家権力、マスコミ」と言って学会員を煽ってました。そして、草の根レベルの運動で大きくなりました。現在、草の根レベルで学会に対する憎悪が半端ない速度で膨らんでいます。今や庶民が「三障四魔」状態です。学会は「味方は自民党、国家権力、マスコミ、敵は庶民」と宣伝したらどうでしょう。

まあ、権力に擦り寄らないと、悪事が一気に暴露されますから、「延命策」としては最適戦略なんですけどね。ただし、短期的な延命策にしかなりませんから、庶民を踏み台にしたツケの大きさを考えられないほど信濃町も切羽詰まっているんでしょう。

思い出の人々(2)

わたしが学会組織と適度な距離をとっていたころでしょうか。伝統のある、とある(非日蓮系)仏教宗派の僧侶と交流がありました。ここではOさんとします。

現代社会の僧侶は家族を持っています。創価学会がそのことを批判していますが、彼等の棚上げ論は、ここでの主題ではないので置いておきます。Oさんの父親も僧侶で、Oさんはその跡継ぎとして大変期待された方でした。

Oさんは、冷静で思慮深く、懐の深い尊敬すべき人物でした。仏教や哲学に対して造詣の深いものをお持ちでした。学問的なことだけでなく、家族や社会との関係の中で、いろいろ悩み、苦労されてきた様子が伺えました。その点、在家と出家の差などなく、苦しみながら人生を歩むところは同じだと思いました。

Oさんは、わたしにいろいろなことを教えてくださいました。最初の頃のわたしは、一応学会員としての立場だったのですが、今考えれば浅い主張を繰り返していたなあと思います。わたしは、心の奥底を見透かされているような印象を受け、彼に対して畏怖の念のようなものを抱いていました。要するにこの人には敵わないな、と。ですので、Oさんのような方がいるならば、この宗派は将来期待できるなとも思えました。

Oさんとの交流もなくなって時間がかなり経過したある日、Oさんが病で亡くなったという連絡を受けました。わたしは、強い悲哀感を持つとともに、「わたし(アロエ)はあれから成長しましたよ」とOさんに伝えられなかったことを後悔しました。まだ若く有能なOさんの死は、間違いなく大きな損失で、大変残念です。

いろいろお世話になったOさんとその家族の方々に、心から感謝の言葉を述べたいと思います。実は、わたしがこのブログを始めた理由のひとつは、Oさんに対する報いでもあります。


Oさんから頂いた「無根拠からの出発」(野家啓一著)を本棚に見る度に、Oさんを思い出します。

無題

誰かが同じようなことを書いていると思いますけど、いまトイレでふと書いておこうと思いました。ウインク
題名は考えるのが面倒なので。。。

池田さんのスピーチや本を見ていると、やたらと他からの引用が多いわけです。創価学会こそ唯一正しい団体と主張しながら、外の権威や偉人を持ってくるのです。学会の正しさの証明を、学会の外のものに頼るということは、その「外のもの」も正しいと暗に言っているわけです。それなら、別に学会でなくていいじゃん、ということを考えようとしないのが学会員です。

信濃町が「外のもの」を必死に用いている理由は他にもあります。「みなさん社会で創価学会員というだけで疎外感を持つハメになってるけど、実は他と一緒なんだよ」ということを無理矢理に思わせて安心させるためです。こうした一般社会との共通性(があると思うこと、無いんですけど)は、学会の悪事を責められたときにも利用され、「他の組織でも同じような悪事が行われているじゃないか」という言い訳を述べることとなります。

もう一度いいましょう。それならなおさら学会でなくてもいいじゃん!

学会員さん、何を必死に学会にこだわっているのですか?よーく考えたら、学会にこだわる理由は何もないんじゃないですか?ほら、外をご覧なさい。学会員でもないのに、立派で幸せな人々がたくさんいるのではないですか。いるでしょう。彼等は学会員でないという理由だけで、劣っているのですか?

そう言えば、昔、みんなで議論したことがありました。学会内でキング牧師やガンジーがそんなにすごい扱いされているのなら、彼等の宗教もすごいのか?という話題です。信濃町幹部によると、「彼等は過去世にそれなりの善根を積んでいるんだ」という説明でした。信濃町幹部はすごいですね。おそらくその「善根」を見てきたのでしょう。

宗教的解釈なんぞ、人によってどうにでも変化できます。どうにでもできる場合に、人の集団を維持(拡大はもはや無理)するための最適解は信者を引き止めるような解釈をすることです。その解釈が正しいとか正しくないとかは二の次、三の次です。池田さんや信濃町が本当に正しいかどうかの基準で動いているのなら、たかが数十年で収拾しきれないほどに矛盾が広がるわがけないじゃないですか。要するに商売的発想です。商売です。拍手 実際、信濃町のみなさんは財務で集めたお金で株投資までして儲けてますしね。信濃町にとって学会員はお金のなる畑なんです。

学会員は主観のみの世界で生き、感情制御はしない

学会の言うところの「対話」なるものを行うと、途端に学会員が形勢不利となります。何度も書きますが、その時の彼等彼女等の捉え方は「学会攻撃」であり、逃げ口上は「批判ばかりしてないでもっと明るく生きたら」という上から目線です。それは、面白いようにコントのごとく繰り返され、わたし達の期待を裏切りません。

「哲学」という言葉を簡単に使う彼等彼女等から、人格や思考の深みを感じとれないのは残念でなりません。残念というか、正直言いますと、自分達の姿を客観的に見ることができない様子は非常に哀れです。学会員にしてみれば、「学会・池田さんは(根拠なく)正しい」という教えに忠実で、池田さんをはじめ、多くの学会本部職員の真似をしているだけなんですが。

いろいろな本に書かれておりますが、それぞれの道で成功する人に共通することは、「客観的・抽象的な思考ができ、感情コントロールが上手い」ということです。例えば一流のスポーツ選手が最も重要視していることに、イメージトレーニングと感情コントロールが挙げられるそうです。イメージトレーニングは客観的な状況を頭に描かなければなりません。また、感情制御できないと大事なところで正確な判断ができません。そういう自己鍛錬の上に、彼等の自己実現と成功があります。考えてみれば当然かもしれません。

創価学会の教義・存在を考えてみますと、まるで反対の方向に人々を煽っている団体にしか思えません。つまり、池田さんや学会員の主観のみを優先し、感情を思うままにぶちまけるべき、というのが池田創価教です。その結果、彼等にとっての「強い人間」とは、感情むき出しに我を通す人のことであり、落ち着いた考察に基づく言動をする人ではなくなります。

ですから、自分がされて嫌なことを他人には平気で行う一方で、自分にされることを極度に嫌う学会員が生産されます。そんな人が多過ぎて辟易します。そのような未熟な精神性では自分を律することなどできないため、世界平和どころか、身近な人との争いも絶えないでしょう。

最近、学会員とある問題について長時間にわたって話をしたのですが、その時に思ったことを書き留めました。一般常識ではあり得ない、学会員の自己中心的な思考と振る舞いに、周囲の我慢が限界に達していました。日本全国で同じ状況が起きているのだろうな、と思いました。
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