価値[再]創造

創価学会における素晴しき体験と
めぐり合った会員や幹部との思い出を基に
価値観を再構築していきます

創価学会

思い出の人々(1)

いわゆる創宗戦争が勃発して何年か経過した頃です。法華講員のAさん、中立的立場ののSさんと縁する機会がありました。確か、最初にSさんと知り合い、SさんがわたしにAさんを紹介してくれたのがきっかけだったと思います。この交流は、半年くらい続いたと思います。

その当時のわたしは、「学会こそ正しい」と勘違いをしていた、少なくともそう思うように自分を仕向けていたので、Aさんに対して批判的な立場で対話をしておりました。時々失礼なことを言ったと思いますので、申し訳なく思っております。でも、そんなわたしに対してもAさんは誠実に、我慢強く話をしてくださいました。

Sさんは不思議な方でした。学会のことも、宗門のことも、ある程度の知識を持っていて、どちらの会合にも参加した経験があるようでした。ある時は、わたしとAさんの討論の司会者のようであり、ある時は第三者として楽しんでいるようでした。

3人の会話は、ほとんどメールでのやりとりでしたが、一度だけ六本木のお洒落なおでん屋さんで、三人で食事しながら話をしたことがあります。Aさんが「真面目な話だから、濃いお酒はやめておきましょう」と笑って言われたのを覚えています。話の内容はというと、当然ながら平行線で何の発展もありませんでした。しかし、お二人に対して親しみを持つことができました。

今考えると、それでよかったんだと思います。教義だとか本尊だとか、多くの矛盾を含んでいるようなものを信じ込んで、憎しみあっても何の価値もありません。むしろ、わたしなどは学会の隠された歴史を知らないまま、Aさんが信じる宗門の歴史だけを責めたわけですから、価値がないどころか問題ありですよね。

その後、Sさんと1回だけお会いして、会館の衛星放送に連れて行ったことがありましたが、いつの間にかSさんともAさんとも連絡し合うことはなくなりました。お二人とも元気かなあと時々思い出します。あまり宗教に傾倒せず、充実した人生を送られていることを祈ります。

SGI提言2008 斜め読み

凝りもせず、恐いもの見たさもあって、今年のSGI提言を読んでみました。笑顔

この提言は、学会内部でどれほど読まれているのでしょうか?学会員はしっかり読むべきだと思います。特にバリバリさんは、しっかり読みなさいよ。池田提言ですよ。

少しずつ見てみましょう。いきなりズッコケます。

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私が仏法者として一番憂慮していることは、こうした風潮に乗じて昨今の"原理主義への傾斜"ともいうべき現象、心性が、随所に顔をのぞかせていることであります。
(中略)
そこでは、万事に「原理」「原則」が「人間」に優先、先行し、「人間」はその下僕になっている。
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創価学会が"原理主義への傾斜"を否定するのは、暴走族が暴走運転を否定するのと同じですよね。

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人間は、ともすれば手っ取り早い"解答"が用意されている原理・原則に頼りがちです。
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これ(リンク)に似たことを言ってますね。伝家の宝刀「先生はこう述べられているんだよ」という指導が否定されてます。

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シモーヌ・ヴェイユの比喩(田辺保釈『重力と恩寵』筑摩書房)を借りれば、人間や社会を劣化させてやまない「重力」に引きずられ、人間性の核ともいうべき"汝自身"は、どこかに埋没してしまう。私どもの標榜する人間主義とは、そうした"原理主義への傾斜"と対峙し、それを押しとどめ、間断なき精神闘争によって自身を鍛え、人間に主役の座を取り戻させようとする人間復権運動なのであります。
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この提言の代筆者は、恥ずかしくないのでしょうか。いや、恥ずかしかったでしょうね。わたしの希望的推測ですが、代筆者は、この提言が外部の目に触れることによる恥辱よりも、上記のような良心を学会内部で育てることが先決だと考えているのでしょう。その恥辱も「表面上の執筆者」の池田さんにいくわけですし。わたしがそう推測するのは、以下の部分、

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何といっても、原理主義という言葉が最も頻繁に使われるのは、宗教のあり方をめぐってであるからです。
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ここまで述べてあって、「自分自身の宗教としての在り方」を問わない学会員がいたら、その人に何を述べても通じません。要するにネジがたくさんハズれています。この提言もそう述べています。以下、

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それ故、私は「21世紀文明と大乗仏教」と題するハーバード大学での2回目の講演(1993年9月)で、宗教を持つことが、人間を「強くするのか弱くするのか」「善くするのか悪くするのか」「賢くするのか愚かにするのか」という視点を、宗派性を超えて導入すべきであると、自戒の念を含めて、強く訴えたのであります。宗教が人々の平和と幸福に資するためには、何よりもその宗教が、人間を「強く」し「善く」し「賢く」するよう促し、後押しするものでなければならない。
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「自戒の念を含めて」とありますやうに、「自戒」は「賢明」なことなのでしょうから、自身を顧みることをしないバリバリさんは「愚か」だということです。池田さんに「バカ」と言われてますよ、バリバリさん。同時に、マニュアルにないことには「弱い」バリバリさん、組織のためなら法律や迷惑も気にしない「悪い」バリバリさん、池田提言によって否定されていますよ。さんざん煽られ、バリバリ活動した結果、ハシゴをはずされてますよ。

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急速に進むネット社会に漂う、ある種の手詰まり感は、情報科学のもたらすコミュニケーションの拡大がそのまま「地球上の魂を……一つに結びつけ調和させる」ことにつながるとする楽観論など、現状は皆無に近いことを物語っているといえましょう。
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「ある種の手詰まり感」ってアバウトな。。。ネットと同じ大量通信機器である衛星放送(幹部会)では、マンネリ、自己宣揚、言語・意味ともに不明瞭なスピーチ。。。手詰まり感・疲労感が凝縮されてますね。

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ミシュレのいう普遍的な「正義」ではなく、あらゆる次元の個別的、部分的な「正義」が、人間の「弱小さ」につけ込むように己の正しさを言い募り、角突き合わせ、争っている──"原理主義への傾斜"を憂慮する所以であります。部分的「正義」の先にどんな悲惨が待ちかまえているかを知らずに、人間はなかなかその誘惑に勝てない。
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「その誘惑」に負け続ける学会員さん、よく読みましょう。あなたがたの「部分的正義」でどれだけの人に迷惑をかけ、自身の人生を棒に振っているか。あなたがたは自身の「正義」を説明もできない未熟さを自覚しましょう。「先にどんな悲惨が待ちかまえているか」想像しましょう。

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特に、対話と対極に位置する狂信や不寛容の歴史を引きずる宗教の分野にあっては、ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話こそ、まさに生命線であり、対話に背を向けることは、宗教の自殺行為といってよい。したがって、仏法を基調とする人間主義を推し進めるにあたって、いかに狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだかろうと、この、対話こそ人間主義の"黄金律"であるという旗だけは、断じて降ろしてはならないと訴えておきたいと思います。
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代筆者は、よく書いてくれました。どう考えても学会内部向けとしか読めません。創価学会は「狂信や不寛容の歴史を引きずる宗教」であり、「ドグマを排し、自己抑制と理性に裏打ちされた対話」が不可能で、「学会以外はダメ」という「狂信や独善、不信といった問答無用(原理主義)の壁が立ちはだか」っている宗教そのものです。

提言の後半は、環境と人権について述べられていますが、例によって「○○を提案する」「○○の創設を呼びかける」といった、「言うだけ」の無責任さに溢れています。富士桜墓宛では、法律を捻じ曲げ、山を切り崩して環境破壊を行い、脱会者にはストーカーまがいの人権蹂躙を行う団体が、環境と人権の保護を訴えている。まるで、暴走族が。。(以下略)。

いやあ、面白すぎるではないですか、池田提言。完璧に学会員を否定しているのに、読者であるはずの学会員は、おそらく読んでもいないから「すごい!」としか考えていない。この提言を片手に対話している学会員がいたら見てみたいですね。

矛盾に満ちたこの提言、学会内部で問題意識を育てるには大変価値のあるものです。

つれづれに?このブログと信濃町

1年少し前でしたでしょうか。このブログ終了の目安として、わたしの家族が実質的に脱会し、わたしの周りから学会関係の物や情報がなくなる時をなんとなく考えていました。昨年いっぱいでそのような状態になることを目指していました。

現状は、ほぼ目標を達成したと言えるに等しいです。実家における学会関係の出費は聖教悪口新聞のみで財務をすることはなく、会合にもほとんど参加していません。母親のみが付き合い程度に衛星放送に行く程度です。ことあるごとにわたしが説得をしてきたのは切っ掛けにはなったかもしれませんが、今考えると、おそらく家族のみんな遅かれ早かれ学会の異常さに気付いたと思います。

もっとも意外だったのは、わたしの兄弟です。もともとさばさばした人ではありましたが、学会という存在が自分にはもう必要ない、むしろ邪魔だと感じ、すぱっと距離を置いたようです。ただ距離を置いたというだけでアンチになることもなく、普段の生活をしています。かつて、「こんな(悪口ばかり書いてる聖教)新聞は、恥ずかしくて啓蒙できるわけねぇ」と毒付いていましたから、不満はたくさんあったのでしょう。

これも前に書きましたが、かつて地元組織の強引な干渉によってわたしの家族が崩壊しかけたことがあります。現在はなんとか修復しましたが、この点に関しては、わたしの兄弟を含め家族みんなが決して忘れません。しつこいと言われるのならそれで結構。強制的に家族を犠牲にさせられることに怒らない馬鹿はいない。家族を犠牲にしてまで、広宣流布(=裕福な信濃町の方々を養うこと)なんてしない。

ちなみに、あれだけ僧侶を攻撃するくらいだから、信濃町では信仰・信条に基づいて、質素に生活してると思ったら大間違いです。地方でも上位幹部になれば、様々な利潤を得ています。例えば大分の青年部が九州の幹部を批判したことは有名ですね。信濃町では、若い男性本部職員の風俗通いなどざらにあります。「組織内の女性に手を出すのは危険だから」という彼等の言い分を、思わず納得してしまいそうになるのは面白いですが。。。

本部職員にも家族がいて生活があるといっても、彼等の食い扶持を得るための「商品」が、池田さんというパフォーマーや、中身が極めて薄いあの新聞などでは、あまりに悲惨でしょう。強引な折伏と啓蒙をしなければ商品をさばけないのは、その商品に問題があるんです。本部職員は、そこを見ようとしないでしょうが、将来を案ずるなら一度考えなさいよ。「憶病にては敵わず」でしょう。そういうときに「法華経は理解し難い」なんて言うバカは、いつまでも商品が売れない原因を自分の外に求め、人のせいにして、世間を恨みながら惨めな状況になるしかない

話が逸れました。このブログを辞めるのかということですが、実は昨夏に終了しようとしたことがありました。しかし、目標を完遂していないのでもう少しダラダラとやることにしました。ネタ的もあと少々書きたいことがあります。それでも続けるのは今年いっぱいでしょうか。所詮はわたし自身の忘備録、頭の整理、ストレス発散にしか過ぎないこのブログですが、少しは何かの役に立つこともあるでしょう。

奇跡に頼る学会員

学会員が組織を離れられない理由のひとつとして、密な人間関係がよく挙げられます。また、聖教座談会などで学会員を脅しまくっていることも効果的です。他にどんなものがあるでしょう。

日蓮には様々な奇跡的な逸話があります。国家諌暁の書にあるいくつかの予言を当てた。龍ノ口で首が切られそうになったとき、彗星が現れた。佐渡の極寒の地でも生き続けた。蒙古襲来のとき、日蓮がいたために神風が吹いた。。。

これらの逸話から、日蓮には不思議な力があると信じた人は多いのではないでしょうか。だから、辞めれば罰が当たる、なんてバカな話を信じてしまいます。少なくともわたしはそうでした。それで、ふと思いました。学会員は「奇跡的なもの」「人知の及ばない超越的な力」への依存が強いのでは、と。奇跡的なものを期待するため、賭け事で言えば「当たり」が出るまでやめられないのでは、と。結果、破綻するまで病み付きになります。

別の言い方をすれば、学会員は奇跡的なものでしかモチベーションを維持できないのです。信濃町も、あの池田さんが「超越的存在によって選ばれた人」があるかのように吹聴しますね。そもそも教義破綻しているので、そうすることでしか組織維持ができないことが分かっているのでしょう。あるいは、組織が徐々に崩壊しているので、「神風」に頼らなければいけなくなっているのですね。

さて、日蓮の逸話ですが、現在の解釈は変わっています。蒙古襲来の可能性は、僧を含めた知識階層ならみんな考えていた。幕府の内乱は、下剋上の時代にはよくある出来事であった。龍ノ口の法難における「光もの」の奇跡が史実かどうかは怪しく、龍ノ口では最初から助命される予定だった。佐渡では日蓮を援助する人々がいた。蒙古撃退は神風というより幕府の戦術が効を奏した、等々。

フィクション「人間革命」にもたくさんありますね。作り話としての奇跡が。小説(=フィクション)だと言ってるのに、本気で受け止める学会員の多いこと。パチンコでフィーバーなんてそう簡単には出ませんよ。現実世界に戻りましょうよ、学会員さん。みんな待ってますよ。 続きを読む

今日の出来事

ニュース番組みたいなタイトルですね。

昨日の晩まで、仕事上のとある懸案事項を考えておりました。いつかは決断して実行しなければならない事項でした。引き延ばさずにすぐに行うべき内容だったので、今日の午前中に実行しようと思い、その方法などを昨晩考えていました。ちなみに最近、わたしが夜に思索する場合、風呂の湯船の中でする場合が多いです。温泉 静かですしリラックスして考えることができます。

昔のわたしでしたら、「よし!唱題してうまくいくように祈念するか」となるのでしょう。しかし、今のわたしの「祈念」は湯船の中で行うわけです。温泉 足はシビれないどころか快適だし、自分の声(唱題)がノイズとなって思考の邪魔になることもない。血流もよくなるので、よく考えられることが自分でも認識できます。

さて、昨日の晩に考えをまとめ、今朝気合いを入れて仕事場に向かいました。そうすると、わたしが動くまでもなく、その懸案事項がスムーズに次々と解決していくのでした。事前にじっくり考え、気合いを入れていたのに、全くの拍子抜けです。そう言えば、先週も別件で同じようなことがありました。

湯船教すごいです!温泉 願った通りになりました。これは本物の信心です。。。となるわけありません。これが不思議と思えてしまうのは、単にわたし達が世の中の全ての動きを観察できないからです。観察できるとすれば、例えば、人の考えや行動を完全に先読みできるとすれば、何事も「偶然」ではなく「必然」あるいは「想定通り」と見えるでしょう。

結局、信仰で不思議な出来事があるように見えるのは、ほとんどの場合、そういうことです。人間の観察はとても不完全で主観が入っているのですから、まるで「祈り」そのものが未来の運や外の環境を左右するように「時々」見えてしまうのです。仏罰なんてある訳がありません。

聖教新聞では、「宗門のイベントは雷雨だった」と書き並べ、まるで自然現象と信仰がリンクしているように主張しています。各家庭では「打倒○○」と祈念させています。そうした行為が、如何に非論理的であるかを知るべきです。人間は感情の生き物ではありますが、論理ができるからこそ人間です。そして感情論は余程親密な間でしか通用しません。
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