価値[再]創造

創価学会における素晴しき体験と
めぐり合った会員や幹部との思い出を基に
価値観を再構築していきます

創価学会

祈りが効く範囲

そろそろ野球のシーズンが始まりますね。今年は、松坂や井川もアメリカ大リーグに行き、大リーグがますます楽しみです。

イチローは、独特ののストレッチをしてバッターボックスに入ります。一流の選手は皆それぞれ、集中するために一連の決まった動作をしますね。昔の日本の野球選手では、ボックスで必ずお尻をプリプリッと振る選手もいて面白かったです。

このように集中力を高めたり、気持ちの高揚を図ることは、野球に限ったことではなくスポーツ以外でもあることです。皆、自分に合った方法で気持ちを高め、目標を達成しようと地道な努力をします。

さて、信仰における祈りはどうでしょう。わたしは、祈りも同じと考えます。自身の精神を集中し、気持ちを高めることしかできないと考えます。冷静に考えてみましょう。「祈り」という行為そのものが、祈る人の外の世界に直接作用すると思いますか?

祈ることで、目の前の物が浮かんだり、天気が変わったりするような、物理法則を破ることは絶対に有り得ません。マリックとかセロとかならできそうに思えますが、彼等とてちゃんと物理法則に従っているのは明らかです。壁からハンバーガーが出てくるのは、壁の向こうからハンバーガーを押し出す人がいるのです。

たまたま祈りが叶うことはあるでしょう。しかしそれは「たまたま」の域を出ず、本質的な因果関係がある訳ではありません。また、気持ちの高揚によって、免疫系が強化されることもあるでしょう。しかし、精神の高め方は「人に依る」のです。

学会員はそこが全く分かっていないですね。広宣流布というのはまるで、全野球選手にイチローのストレッチをやれと言っているようなものです。そして、イチローのストレッチをやるだけで、練習もせずに3割5分を打てると考えています。世の中の多様性を認識せず、唯一絶対と言えば言うほど、「彼等はオカルト好きなんだなあ」と思えてしまいます。

ただ、学会教学部(の一部?)は、そのあたりをわきまえていますね。むかし、とある教学部幹部は次のように言ってたのを思い出します。

「極論かもしれないが、祈りは他人に作用することはなく、原理的には自分にしか役に立たない。ただ、それを学会員に言うことはできない。」(大意)

いやあ、そろそろ言わないと、みんな(オ)カルト宗教まっしぐらなのですけど。。。困った そういやこの幹部、他宗の祈祷を時々やると聞いたことがあります。それをやると頭が冴えるからという理由だそうです。ただし、その分、題目もたくさん唱えるとか。わたしはそれでいいと思います。拍手

板本尊に関する再考察

前回の考察には少し甘い部分があったため、犀角独歩さんにご迷惑をおかけしてしまう結果となってしまいました。ここにお詫び申し上げます。

犀角独歩さんの名誉のために、本尊画像の解析を一からやり直しました。これによって、犀角独歩さんの主張が更に信頼性のあるものになると期待します。

画像は、前回もそうですが、犀角独歩さんのページから拝借したものです。どこか他のところからダウンロードしたものではありません。以下に、わたしの行ったことを淡々と書きますが、あまりに簡単な作業にしては結果が明解なので、自分で驚きました。

(1)犀角独歩さんのサイトから、画像のダウンロード。
(2)戒壇本尊と日禅本尊の切り出し。
(3)日禅本尊のグレースケール化。
(4)戒壇本尊と日禅本尊を横に配置。
(5)日禅本尊の題目が傾いているようなので確認。「南」と「華」に含まれる縦の辺を基準に黄色線を引いて比較。

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(6)日禅本尊の題目を垂直にするために、時計周りに2.3°回転。

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(7)題目の縮尺を合わせるために、「南」と「経」に含まれる横の辺を基準に、日禅本尊画像の縮尺を変更。もちろん、縦と横の比率は維持。

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(8)戒壇本尊の題目を黄色でなぞる。

d3206405.jpg


以下が黄色字の拡大。どんななぞり方か確認してください。

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(9)なぞった黄色字を、何の細工もなく、日禅本尊に平行移動。

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ここまでの作業は、あっと言う間です。しかし、この重なりぶりは驚くべきものがあります。作業手順をそのままやってもらえれば、同じ結果になるはずです。

本尊は、行書体と草書体の間のような字体で、しかも髭のような長い部分があり、全体の大きさは1メートルを超えるものです。わたしは書道の経験があり、プロが書くところを何度も見てきましたので、この字体をこの大きさでここまで似せることがどれだけ困難か分かります。

書道経験者でなくても想像できます。小筆で書く大きさの字は手首の動きだけで書きますので、同じ字を書く精度は高くなります。しかし、大筆で書く大きさの字の場合、腕全体を使わないと書けません。つまり、手首・肘・肩と自由度が3つもあるわけですから、同じ字を書こうとしてもその精度は低くなります。

そもそも、これら2つの本尊の類似度は圧倒的であり、他のどの2つの本尊を比較しても、ここまでの類似度は得られないでしょう。

最後に、反論したい人には、願わくば「賊」とか「妄」とかいった言葉を使わずに反論して欲しいものです。そこまでして自身の信頼性を削らなくても良いでしょうに。

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追記(3/6)
○ 筆で字を書くとき、正確には指の微妙な動きも重要です。
○ 「賊」とか「妄」とかの言葉を合間合間に入れられると、論説としてとっても読みにくくなります。こちらはその部分をわざわざ飛ばして読まなくてはいけないのですから。

相対尺度

わめさんとの会話で考えたことを書いてみました。

わたし達人間は絶対尺度を持っていません。物理学においては、物事を計測するためのいろいろな尺度が定義されます。しかし、わたし達の身近な世界のものは全て相対尺度です。例えば、わたし達が使う摂氏温度は、身近な「水」の沸点と融点を使った「分かりやすい相対尺度」にしか過ぎません。

そもそも人間は、絶対尺度で物事を観測できないので、相対尺度を使うしかなく、したがって相対尺度が悪いわけではありません。そして、摂氏温度に0度があるように、相対尺度にはどこか原点となる基準点があります。その基準点からどれだけの差があるか、という見方で物事を測るわけです。最も気を付けないといけないのは、それがあくまでも相対世界だけに通用する基準点であるということです。

絶対基準が分からなくとも、せめて複数の相対尺度(わめさん的に言えば多元的?)をもって物事を測れば、客観性も増して、絶対基準に近い立場で判断ができるようになると思います。だから様々な尺度で問い続けることが必要なのでしょう。小林秀雄の言葉:

問いがそのまま答えになるほど執拗に問う人もあり、問う能力がないから答えを持っている人もあるのだ。解決を欲しがる精神が、奴隷根性の一変種であるのが大体普通なのである。(小林秀雄全作品5)

の意味は、完全な「絶対」を獲得することはないことを理解しつつ、それでもなお「絶対」に近付けるための努力を人間はすべきだ、簡単に「絶対」が得られると思い、相対基準を絶対とすることは、その狭い世界に閉じ込められること(奴隷)だ、とわたしは解釈します。奴隷になって視野が狭くなれば、将来うまくいくはずもないですね。

しかし、わたしたちは油断すると、相対尺度における基準が絶対基準であると錯覚してしまいがちです。特に学会員はその傾向が強いと思います。つまり、彼等は創価というものすごく狭い世界でしか通用しない「創価基準」が絶対だと思い込み、その基準でしか考えられない、話ができなくなります。ですから、簡単に「絶対正義!」なんて恥ずかしい言葉を使ってしまいます。

質が悪いのは、狭い学会尺度に「合わないもの」が目の前に出現したとき、彼等は自身の相対尺度の見直しをするのではなく、「合わない方が悪い」という極めて自分勝手で幼稚な思考しかしないことです(思考と言えるものではないですが)。だから、他の社会と軋轢しか生まないのでしょうね。

問い続けることで客観性を増した基準は、万人の理解も得やすく、その結果、「共存」ということも可能になってくるはずです。創価学会のように、内部の問題をいつまでも隠蔽し続け、外部からの客観的な検証を避け続ける組織が「絶対」な訳がありません。そのような組織が、「平和」などと綺麗事を言ったところで、他の社会と共存できないことは明白でしょう。

学会御用達の雑誌や教授の言葉を以って客観的だという学会員が時々いて、多くの人を唖然愕然とさせますが、彼等は己が狭い尺度しか以たない「奴隷」であることに気付いていないのです。彼等はまた同語反復も得意です???「学会は正しい!なぜなら学会は正しいからだ!」。

ニセ宗教

もうさすがにしばらくヒッキーになろうと思っていたら、面白い記事を発見しました。

「まん延するニセ科学と、対峙する科学者たち」

半分ぐらいから先が特に面白いですね。
以下一部抜粋:

悩ましいことに、それらの説を流布している人たちの多くは、善意から行動しているというのである。本人たちは「良いこと」をしているという確信を持っているのだから、その説の科学的な問題点や論理的な欠陥を指摘しても、なかなか納得してもらえないし、なによりも「善意の行動に横やりを入れている」ように見えかねないというところが難しい。つまり、場合によっては、善意の第三者の中には、ニセ科学の問題点を指摘している側が悪役に見えかねないってことにある。まあ「正義の押しつけ」は、バランス感覚の優れている人ほど、気持ち悪く感じるもんかもしれないしね。

菊池氏に言わせれば、人がニセ科学に魅入られやすいのは、ニセ科学が単純な二分法で複雑な問題に明快に白黒をつけてくれるからだという。しかし、現実の世界というものは複雑なものであり、その複雑さを少しずつ読み解いていく課程(ママ)こそが「合理的思考」であり「科学的思考」だとも、菊池氏は言う。

菊池氏の取り組みがユニークなのは、自らの活動によって、今すでに「ニセ科学」を信じてしまっている人を説得できるとは、必ずしも考えていないという点にある。
 それよりも、今はまだそういう説を知らない人たちが、ふとしたはずみでその存在を知り、おかしな考えにとりつかれてしまう前に、「こういう説は科学的なように見えて、実は非科学的で何の信憑性もないんですよ」ということを広めておこうというのである。病気に例えれば、感染してしまってからでは治療は困難だから、しっかりと予防措置をしておきましょう、というようなことかもしれない。


抜粋ここまで。

すでに創価を信じてしまっている人は、説得が不可能なのかもしれません。
この記事の結びを書き換えてみました。

これらの試みが、大きな実を結び、ニセ宗教の広がりに少しでも歯止めがかかることを期待したい。

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追記(2/8)
「あるある。。。」とか「思いっきり。。。」とかを見て、納豆やココアなどを買いに走った人達は学会予備軍かもしれません。気を付けましょう。
聖教新聞に載る体験談なども、「あるある。。。」で紹介される成功例のようなもので、その人自身の体験は真実だとしても、学会とは何の関係もない「たまたま起きた」出来事です。なぜなら、ほとんどの人が同じような体験を得ることはないからです。

わたしの信仰体験(3)

わたしがまだ「学会は正しい」なんて勘違いしていたとき、いろんな人と対話をしてきました。前にも書いたことがありましたが、どれだけ嫌なことを言われようが、反論できないことを言われようが、感情を抑えてじっくり考えました。どうすれば理解してもらえるか?苦労したものです。

でもまあ、いくら調査と考察を重ねても、最後には「学会は正しい」という結論に至らない訳です。幹部なんて「祈りが足りない!」という精神論だけで、対話のための資料提供などしませんから。わたしが知る複数の本部職員を見ても、その不勉強さは悲惨です。不勉強な割にはやたらと態度はデカく、見下し表現だけはとてもうまい。本部職員は学会関連の資料に精通するプロフェショナル、と思っていたわたしがバカでした。

いやいや、そういう話は良く知られたことですから、もういいでしょう。話を戻すと、わたしが学会正義の立場として対話をしていたとき、何度も思ったことは、

「学会がこれまで社会に迷惑をかけてきたのは分かる。でも、みんなそこまで嫌わなくてもいいじゃない。わたしは同じ人間として付き合いたいだけなんだから。」

ということでした。そして、

「あの人はいつも学会を憎んでばかりいて、かわいそう」

と思いかけると、

「でも、あの人は普段はとても常識的で勉強家だし、学会以外のことでは楽しい人だ」

という反論が、わたしの頭に勝手に浮かぶのでした。そして、

「多くの人が、学会に対する態度だけ違うのは、何か訳があるのか??『学会が正しいからこそ特別に迫害される』というお決まりの妄想は説得力が皆無だし。。。」

と思考はいつも同じところに行き付き、悶々とした日々が続くのでした。

しかし、ある出来事で、わたしの考え方は一変します。わたしの家族の問題に対して、学会幹部が執拗に干渉したため、わたし達の家族の絆は崩壊したのです。何度も圏幹部や学会本部にも止めさせるよう相談しましたが、何のアクションもなく崩壊に至りました。わたしが直接幹部と話をして分かったのは、彼等の行動基準が「組織のため」ということでした。「組織のため」にわたし達の家族は大きな傷を負いました。まだ癒えていません。

ここに至ってようやく、理解の遅いわたしも気付くのでした。こういう事を経験しないと、どれだけ学会という組織が悪いか分からなかったのです。社会の人々が、「創価」という言葉だけで拒絶反応を示してしまう気持ちがハッキリ分かるようになりました。一般会員は、直接罪はないかもしれません。しかし、彼等が支持する組織により、昔も今も次々と犠牲になる家族があることを思うと、間接的に罪があります。しかも彼等は「あの人もこの人もいつかは学会員に」と無邪気に考えています。

かつてのわたしのような無邪気な学会員は、まず相手の立場が分からないのです。「人間革命」みたいなお伽話を信じてますから。学会の本当の歴史を調べようともしない。相手の立場、例えば、宗門、脱会者、批判者の立場になって、その人の経験を自分の身に起きたと思って、もう一度多面的に考えてみてはどうでしょう。この「考える」を放棄したからこそ、まだ学会員でいられるのでしょうから、期待はできないですね。

この数年をかけて、わたしは学会関係の人とは距離を置き、いまはほとんど断絶状態になりました。学会員と討論こそすれ、仲良く談笑することはまず不可能です。談笑してる合間に池田さんの話とか盛り込んで、どうにか説得を試みようとする気配が見え見えです。いまでも時々、わたしに近寄ってくる学会員がおります。彼等はみんな「池田先生」をひっさげて来ます。そうなると、わたしが戦闘(討論)モードにスイッチするので、みんな引き返して二度と来なくなります。

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追記(2/8)
本当に、彼等が持ってくる土産はいつも「池田先生」がメインで呆れます。
「メインに持ってくるべきは日蓮でしょうが!」って怒鳴りたくなります。
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