価値[再]創造

創価学会における素晴しき体験と
めぐり合った会員や幹部との思い出を基に
価値観を再構築していきます

戦後最大の宗教企業とその時代

学会の歴史(昭和61年) (1)


石田次男、福島源次郎といった大物達が、次々と離反します。

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1986(昭和61)年(1)

01/??
石田次男、学会から離反。批判記事を発表する。

01/06
【学会】、神奈川の組織を衆議院の選挙区割りに改編。
第1神奈川県(横浜市16区)……衆院神奈川1区・神奈川4区
第2神奈川県(川崎、横須賀)……衆院神奈川2区
第3神奈川県(相模、湘南、西湘)……衆院神奈川3区

01/26
【学会】名誉会長、第11回『SGIの日』記念提言。『アジア・太平洋平和文化機構』の構想を提示。韓国、北朝鮮が『相互不可侵・不戦』を誓約し、〃恒久平和へ対話の大道を〃と主張。

02/??
岩崎美術社、鈴木重三監修・解説の『葛飾北斎富嶽百景』を発行。
『大石寺の山中の不二』をモノクロで収録。

03/15
『継命』、公明党の教育調査の狙いを、(1)〃教育の党〃のイメージづくり、(2)教育部(学会員教員)による教育界の乗っ取り、(3)〃自公連合〃のため〃教育〃を接着剤に……と分析する。

03/29
築地警察署(東京)、山崎正友をマージャン賭博容疑で逮捕。



この山崎の麻雀賭博容疑の逮捕については、『週刊文春』(昭和61年4月17日号)、『週刊新潮』(同年4月10日号)、『FOCUS』(同年4月11日号)、『週刊宝石』(同年4月18日号)で報道された。
 ではまず、山崎自身の書いた「麻雀賭博で『いけにえ逮捕』された私」と題する「痛憤手記」(『週刊文春』4月17日号)を見てみよう。
「千点三百円のレート、五千円のウマだった。場代は一回二千円でトップ払い。これは世間とくらべても、決して高いものではないと思う」(『週刊文春4月17日号)
「私が麻布の店で麻雀をしたのは、咋年8月、9月は4、5回ずつ、10月以降は月に2回行ったか行かないかである」(同)
「最初は4人麻雀をしていたが、メンバーの1人のKがどうしても3人麻雀をしたいというので、竹本氏が抜けた。私は3人麻雀がきらいなので気が進まなかったが、誰か替わりが来るまでというので応じた」(同)
山崎はこの「3人麻雀」が今回の容疑事実だとしている。そして自分が現行犯でもないのに麻雀賭博容疑で逮捕されたことは不当であるとし、かつ政治的背景のある逮捕であると主張した。そのうえで麻雀屋に警察が踏み込んだ時、たくさんのカメラマンがついてきており写真を撮ったのは不自然だとも主張している。
 山崎はつぎのようにも書いている。
「発端はバクチ狂で数千万の借金を抱えるK氏が、竹本氏に対する借金だけでも棒引きにしようと、警察に駆け込んだことである。K氏はあることないことを述べたて、自分一人だけ逮捕を免れた。K氏は『これで助かった』と大喜びしているという。
 このKという人物、創価学会の関係者にそそのかされた形跡もある。ある週刊誌の記者が、『あなたの奥さんは学会員ではありませんか』と聞いたのに対し、初めは否定しなかったのに、あとで必死になって打ち消しだしたという事実もある。また、K氏の親友で同じく借金まみれになっている男が、学会員だという有力な情報もあるのだ」(同)
(中略)
『週刊新潮』(昭和61年4月10日号)も「ささやかなマージャン賭博で山崎元弁護士が捕まった仕掛け」と題する記事を載せている。その記事のなかで逮捕理由となった1月19日の麻雀について、山崎につぎのように言い訳をさせている。
「夕方6時ごろ顔を出してメシを食わせてもらい、様子を見ていると、何か用事で抜けたがっている客が一人いて、私は2、3万しかその時持ち合わせがなく、フトコロが寂しかったので竹本から金を借りて加わったんです。途中で眠くなって6時間ほど仮眠して、朝の8時からまた加わって11時までやりました。結局、2、3万負けでした。その時大負けした男がいて、今回の事件も、まず、この男が仕組んだんです。名前は金子信幸というんです」(『週刊新潮』昭和61年4月10日号)
「私の逮捕状請求の理由として見せられたのが、金子と金子の女房の名前の供述だった。竹本のマンションの部屋に刑事を案内して来たのも、この金子という男なんです。この男は三十遇ぎで、バクチ好きで遊び好き。借金を一千万ほどつくって、母親に整理してもらって銀座に〃まる平〃という鉄板焼き屋をこさえてもらって、本当ならそこの稼ぎで食っていかなきゃいけないのに、相変らずのバクチ狂いで、結局、また一千万近い借金ができちゃった。その上、金子の女房は学会員臭いときている。金子に密告されたんです」(同)
まずここで、山崎は「金子の女房は学会員臭い」と書いているが、これは事実に反する。「金子の女房」は創価学会員でもなければ、創価学会側の記録によっても『聖教新聞』を購読した経歴すら一切ない。
(中略)
実際のところ、この麻布のマンションの麻雀屋は、無許可で営業していたモグリの麻雀屋であるが、そこではどのような麻雀がおこなわれていたのか。
(北林芳典『反逆の裏にある顔』P69?70)

03/30
山崎正友保釈。



山崎の愛人であった鈴木陽子(※仮名)は、山崎が麻雀賭博容疑で逮捕された前後のことについて、つぎのように詳述している。
「(中略)……
『近くマージャン屋に手入れがあることは分かっていたんだ。だから俺は竹本に証拠は隠しておけよと言っておいた。だから俺はすぐに出てこれたんだよ』
とシャーシャーと言ってのけたのです」(「鈴木上申書(1)」)
(北林芳典『反逆の裏にある顔』P78?79)

04/06
【宗門】猊下、「最も中心たるべき日蓮」「人類救済のための根本たるべき大本尊」との表現をする。

04/15
福島源次郎、第1回の『諌言書』を名誉会長に郵送。(全3回)

05/06
大阪高裁、蓮華寺建物明渡、代表役員等地位確認請求事件の判決。宗門・学会側、判決を不服として上告。

05/25
【学会】聖教新聞に
「同志間の金銭貸借や組織を利用してお金を集めることはいままでも厳に戒め合ってきたが、今後ともこの伝統は、いささかも変わってはならない」(本部幹部会・山崎良輔副会長)の記事。

05/25
共産党系の新日本出版社、吉良陽一著『実録創価学会=七つの大罪』を出版。

07/01
『諸君』8月号発売。内藤国夫、学会批判記事に無断で福島の『諌言書』を引用。(出処は石田次男)

07/??
【宗門・学会】、東京(墨田区)・常泉寺で連絡会議。
大村寿顕教学部長、財務について学会に質問。



『大村教学部長は、退転者・福島源次郎が書いた学会誹謗記事を使い、またこれに同調して、学会批判を、直接秋谷にされました。福島源次郎は、法主の血脈を否定した日蓮正宗にとって許すべからざる大謗法の退転者であります。かかる謗法の徒の言動を根拠とするのみならず、同調されたのは、何か特別な関係か、それとも他の理由があってのことでしょうか』
(学会90年12/23付『九項目の「お伺い」』)



『大村教学部長は、福島源次郎氏とは何の関わりもありません。まして特別の関係などあろうはずがありません。また、「連絡会議における」と言っておりますが、これも明らかな思い違いであり、正しくは連絡会議の場ではなく、その終了後の別室における席上であります。大村教学部長は、福島源次郎氏の言葉のみによったのではなく、一般の人々の間でも噂になっていることでもありますので、あえてその噂を否定するつもりで、「財務をノルマのようにしてはいませんね」と伺っただけのことであります』『福島源次郎氏が、現在創価学会に所属していないとしても、法主の血脈を否定したなどということは、まったく聞いたことがありません』
(宗門90年12/29付『「お伺い」書に対する宗務院の返書』)

08/27
山崎正友、東京都港区麻布の公証人役場で、債務者=伝法寺信徒の愛人、債務者=竹本志郎(麻雀店経営者)、連帯保証人=金子伸幸とする「金銭消費貸借契約公正証書」を作成。



「被告(※山崎正友)につれて行かれ、被告から署名するように頼まれたので、被告は刑事被告人だし、表に出ることができないのであろうと思い、私は被告の代理として書きました」(1998年4月28日の第9回口頭弁論における『伝法寺信徒の愛人』の証言)



『この一千万円のうち、二百万円は山崎より転貸しを受けた竹本志郎(公正証書上では鈴木の債務者である)が取り、残りの八百万円は建前上、金子信幸に渡っている。しかし実際には、麻雀などの賭博のツケを清算させられ、二百五十万円ぐらいしか、この日、金子には渡されていない。
(中略)
この日、金子は、みずからが経営する「まる平商事」名義の額面八百万円の約束手形を竹本に手渡している。この約束手形は、金子が竹本から金を借りるにあたっての担保である。したがって金子は「公正証書」の連帯保証人として公証人の前で署名捺印する必要はなかった。
(中略)
金子がその代理人である高橋(※むつき弁護士)に要請したのは、竹本に手渡した額面八百万円の約束手形の回収であった。そのうえで、「公正証書」においてみずからが連帯保証人になっている一千万円の債務を含めた債務処理を依頼したのである。』
(北林芳典『反逆の裏にある顔』P241?243)

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学会の歴史(昭和60年) (3)

『同じように現在も、日達上人御遷化の後、御当代(※日顕)御法主上人を非難している徒がいる。私は命を賭(と)して猊下を御守り申し上げる決心である。彼ら(※正信会)は、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤(しった)しておきながら、いまは手の平を返して、みずからがその根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい。』(池田大作『広布と人生を語る』第3巻P143)

池田さん、言語道断もはなはだしいよ。

昭和60年終了。

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1985(昭和60)年(3)

11/??
【学会】名誉会長,インドのラジブ・ガンジー首相と会談。



『池田と会って6年後――といえば、なんたる偶然か、ネパールの隣国であるインドのラジブ・ガンジー元首相も、奇しくも池田と会って6年後に、同じく非業の死を遂げている。』
(慧妙2001年7月1日号)
※1991年5月21日に爆弾テロで死亡。

11/21
東京高裁第八民事部の鈴木重信裁判長、正信会が起こした〃日顕法主の地位不存在確認と職務執行停止の仮処分〃を求める裁判で、そもそも彼らには法主の地位を裁判で争う資格がないとの宗門の主張を認め、「本件控訴をいずれも棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする」との正信会側敗訴の判決を下す。(第二審判決)

12/04
公明党第23回党大会。
竹入委員長、質疑応答で「国民の期待にこたえるものならば、護憲、反軍拡を条件に、集団、派閥、党を問わず、だれとでも連合協議に応じる」と答える。



委員長あいさつ
竹入委員長は、あいさつのなかで、結党以来最高の勢力で大会を迎えた喜びを述べつつ、首相の「戦後政治の総決算」路線について、「〃改憲〃に結びつくものとして見過ごしにはできません」と、きびしく批判した。路線問題では、 (1)憲法はあくまでも擁護する、(2)軍拡路線を志向しない、「この二点、すなわち現憲法を擁護する姿勢を明確にした勢力であれば、……『話し合い』は避けるべきではない」、「一定の条件が満たされるならば、日本の将来について党派を超えて政策的な話し合いをおこなってもよいのではないか」との「個人的見解」を表明した(あいさつ全文は『公明新聞』85年12月5日付)。
 竹入委員長のこの「個人的見解」は、「事実上、『ポスト中曽根』をうかがう自民党内のニューリーダーや実力者に向けて、公明党との連合協議を呼びかけたもの」であり、「あらかじめ政策協議の問題を明確にすることで、連合への党内合意を取りつける狙いがあるようだ」(『朝日新聞』八五年一二月四日夕刊)と観測された。

質疑
質疑のなかで、公明党の矢野書記長は、「いまの政治の大状況を変える条件が出てくれば大胆に対応しなければならない」と述べ、公明党が想定している連合政権の性格について、望ましい順に、
(1)党の政策がかなりの程度反映できる、
(2)現状よりまし、
(3)暴走に歯止めをかける、
という三つの形態を示し、連合政権づくりに積極的に臨む考えを明らかにした。また竹入委員長も、分科会質疑のなかで、連合協議の相手について、「特定の人物、党、派閥、集団を想定したものではない。全方位で臨む」と述べ、柔軟に対応していく考えを示した。

全民労協、公明支援表明
12月4日、来賓としてあいさつした全民労協の堅山議長は、「全民労協としても公明党を支援したい」と述べ、連合問題についても「単独で政権担当能力を持つ野党がない現状では、あらゆる形の連合を追求するのは当然のことだ」との考えを表明した。社会・民社支援の民間労組の結集体である全民労協が、両党と並列させて「公明支援」を公式の場で表明したのは初めてのことであり、矢野書記長も、分科会質疑のなかで、「画期的なことだ」と高く評価した。
(法政大学大原社会問題研究所:編著『日本労働年鑑第57集1987年版』
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/57/rn1987-436.html)



竹入派と矢野派の確執
昭和60年は大変な年となった。
 この年の夏に最高裁が昭和58年の総選挙の定数配分に対して違憲判決を出した。中曽根内閣は衆議院の定数是正に取り組まなければならなくなった。是正をしないと解散権を行使できない。中曽根さんは早く定数是正を実現しようとした。衆議院を解散し、衆参同日選挙に持ち込んで、両院の与野党伯仲状態を解消したかったのだ。
 ところが自民党の中の反中曽根勢力は、首相の解散権を封じ込めたかった。そのため政府が提出した「六増六減案」に対してさまざまな異論が飛ぴ出し、自民党内がまとまらなかった。定数是正問題が政局になってしまったのだ。 一方公明党でも、60年の暮れから61年にかけて、竹入委員長の進退問題が浮上しはじめていた。ところが、竹入さん本人はともかく、竹入派の連中は矢野さんを後任の委員長に据えることに強く反発していた。公明党の中も竹入派と矢野派に分裂してしまうのだ。
 当時から私はメモ魔で毎日の出来事から電話でのやりとりまで大学ノートに記録として残してきた。このメモをみると、当時のことはよくわかる。その一部を紹介しよう。昭和60年11月26日のものだ。
 <公明権藤国対委員長に会館に呼ばれる。権藤氏は興奮ぎみで、『矢野書記長から党の中央執行部の場で国対費が金丸より数億流されたといううわさがある、と言われた。自民党の江藤(隆美・編集部注、以下同)国対委員長に非公式に聞いてみると、江藤氏は1700万円しか(国対費をもらってないとのこと』> 自民党の国対委員長も知らない間に、残りのカネが定数是正問題をめぐって自民党からウラの国対費として野党に流れ、そこに権藤さんもかかわっていると指摘されたのだという。竹入委員長の退陣を確実なものにするための矢野さんのゆさぶりである。竹入側近の権藤さんが、大勢の前で恥をかかされたということになる。
 矢野派と竹入派の亀裂はどんどん深まった。矢野さんは中曽根側に、竹入・権藤ラインは、自民党の反中曽根勢力である金丸・竹下・小沢ラインに接近し始めたのだ。権藤さんから私に要請があった。「自民党の本流と提携していくための戦略をどう描いていったらいいか、それをリポートにしてくれないか」というのである。
 私が作ったシナリオは、
「第1段階として、定数是正の審議に応じる。第2段階に、昭和61年度総予算の審議に協力し、修正要求をして賛成する。第3段階に、閣外協力を宣言して、自民党政権に是々非々の態度をとる。第4段階に、政策協定をして連立政権を組む。これを2年間ぐらいかけて行う」
というものだった。
 これを基にして、12月20日、自民党から金丸、竹下、小沢、公明党から竹入、権藤の5人で、青山墓地の裏手にある小料理屋で極秘会談を行なった。私は参加していないが、ここで自民―公明の提携構想が動き出すのである。 しかし結局この構想も実現はしなかった。中曽根さんが61年、「八増七減案」を無理やり成立させて、衆参同日選挙を実施したからだ。自民党は大勝利し、中曽根さんは自民党単独政権を作り上げたのだ。
(平野貞夫『公明党「汚れた裏面史」全真相』『現代』2004年5月号)

12/??
【学会】創価新報12月4日号。
『日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化にともない、第67世法主・管長に就任。以来1年半にわたって、彼ら(※正信会)も日顕上人を法主と仰いていたのである。また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚(はなは)だしい謗法である、と明言していた。
 こらした経緯からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分たちの思い通りにならない日顕上人を法主の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。いかにダメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気のさたとしかいいようがない。』



『同じように現在も、日達上人御遷化の後、御当代(※日顕)御法主上人を非難している徒がいる。私は命を賭(と)して猊下を御守り申し上げる決心である。彼ら(※正信会)は、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤(しった)しておきながら、いまは手の平を返して、みずからがその根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい。』
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻P143)

12/20
自民と公明の幹部が極秘会談。
自民党――金丸信、竹下登、小沢一郎、
公明党――竹入義勝、権藤恒夫、

(?)
野村沙知代、『明日晴れたら』で潮賞を受賞。



『沙知代容疑者が、サッチーとして社会進出するきっかけとなったのは、実は学会の外郭企業である潮出版社が設けているノンフィクション賞を受賞したことが契機だった。
「サッチーが書いた『明日晴れたら』という本が以前に『潮賞』という賞を受賞したんです。これを契機に彼女は苦難を乗り越える強い女というイメージでテレビなどに進出することになった」(マスコミ関係者)
(中略)
創価学会の元本部幹部が次のように言う。
「サッチーが『潮賞』を受賞した’85年前後に学会では創価学園の野球部の強化が図られていた。’83年に創価高校が後に近鉄に入団する小野和義を擁して甲子園に初出場。この時の宣伝効果に目をつけた創価学会が、野球部の強化を図り始めたんです。数年後に強化策の中心となったのが、サッチーがオーナーを務める港東ムースからの選手スカウトだった。創価学園では部外生という制度を設け、非学会員である港東ムースの選手を受け入れたほどなんです」
創価学園の元関係者も次のように言う。
「野村沙知代が創価学園に港東の選手を送り込むにあたって謝礼が支払われているという噂はずいぶん前から確かにあった。しかも、創価学園が甲子園に出場した場合はいくらという契約があるとの噂もあった。だからかどうかは分からないが、サッチーは夏の甲子園の西東京大会予選の創価高校の試合にもしばしば応援に来ていました」
もしもこうした噂が本当ならば、少年野球チームの選手の進学に際し多額の謝礼を要求する沙知代容疑者の銭ゲバ手口は、このときに確立されたものだともいえる。
(中略)
さらにあるテレビ局関係者によれば、創価学園と沙知代容疑者の結びつきを強めるのに、学会ゆかりの、ある人物が仲介を買って出たという噂まで飛び交っている。
「それは、創価学園出身で野村氏がヤクルトの監督時代にヤクルトの外野手だった栗山英樹氏ですよ。イチローの女房になった福島弓子と浮き名を流すなど、栗山はテレビ業界で活躍しているが、ヤクルトの選手時代に野村監督と創価学会をつないだと聞いている」(民放関係者)』
(週刊実話2001年12月27日号)

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学会の歴史(昭和60年) (2)

ノリエガ将軍との会談の様子は、聖教一面に大きく載っていたのを覚えています。信濃町本部で発砲事件が発生します。

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1985(昭和60)年(2)

06/27
【学会】、聖教新聞「社説」で金銭貸借禁止令。
『最近、金などの現物まがい商法や、株にまつわる詐欺事件など悪徳商法が横行し、お年寄りや主婦の間で被害が急増し、大きな社会問題となっている。(中略)創価学会は広宣流布を推進するための組織であり、各自が信心を全うし、御本尊を守り、令法久住することが根本義であることを再確認しておきたい。(中略)したがって、学会においては『同志間の金銭貸借は厳禁』が伝統である。金銭の問題で同志を苦しめ、負担をかけることは厳に戒めたい』



『このうち昭和60年6月27日付けの「社説」が言及している「金などの現物まがい商法」とは、金のペーパー商法で多くの被害者を既した豊田商事事件のことだが、この事件では、刺殺された永野会長が創価学会員だったのをはじめ、多くの会員が被害者となった。幹部が会員を利殖で誘うマルチ商法が会内で横行したのである。そこには当然、金銭貸借がからんでいたのだ。』
(週刊実話97年8月21・28日号)

06/30
『赤旗』、選挙関係の学会内部文書を暴露。
座談会での模範演説文=『創立55周年の大きな時節に行なわれる都議選におきましては、先生が示して下さった〃広布の縮図〃を何としても作っていく第一歩の戦いととらえて戦う』…など。

【学会】SGI会長、パナマのノリエガ将軍と会談。
池田が「(ノリエガ将軍は)パナマと中米の〃柱〃として、平和と安定と繁栄のために活躍なされる方である」と言えば、将軍は「昭和56年訪問の際、(ノリエガと池田で)パナマと中米平和の未来を語り合ったフラメンコ島は、今やその意義をとどめて『ミラドール・イケダ(池田展望台)』と命名した」と述べ、これに対し池田は、「大変に光栄です」と、将軍の厚情を謝しながら、「中米諸国で内乱とか紛争のある国が多いなかにあって、将軍の指導されるパナマの国にそれがないことは、もことに喜ばしいことである」等と述べた
※池田は、のち白糸研修所(富士宮万野原会館?)に「ノリエガ庭園」を造成、ノリエガを招待したが、ノリエガが失脚するや、ただちに閉鎖した。

(夏)
【学会】本部詣を指示。幹部が会員に対し学会本部へ行くことを奨励する。

07/03
『赤旗』選挙関係の学会内部文書をふたたび暴露。
文書『終盤の戦い』=『広布を目指しての学会活動が自身を変え、……地域、社会を仏国土に変えていく』…など。

07/07
都議選。公明党29人当選。

08/02
公明新聞、中曽根首相が、靖国参拝につき、かしわ手を打たず、公費支出も玉ぐし料ではなく「供花料」名目なので問題なしとしたことについて、「参拝する側の手ぶり一つでパッと相手は宗教でなくなる、などという宗教解釈を正気で国家の見解にできるだろうか」と批判。

08/11
【学会】戸田記念墓地公園(厚田)で北海道広布記念碑を除幕。

08/15
週刊新潮8月22日号発売。公明党都議・藤原行正が池田名誉会長に反乱と報じる。

公明党、首相靖国参拝について、
「いかなる参拝方式であれ、靖国神社が宗教団体である以上、憲法第20条に抵触することは明らかであり、供花料の公費負担も憲法第89条からみて疑義がある」
との政審会長談話を発表。

08/24
潮出版社、松山善三著『ああ人間山脈「フォーエバーセンセイ」取材の旅』を出版。

08/26
山崎正友、赤坂東急ホテルにて、愛人から1000万円借金をする。
(北林芳典『反逆の裏にある顔』P69)

09/12
【学会】戸田記念墓地公園で、池田大橋が完成。

10/15
日新報道、藤原弘達著『創価学会・公明党をブッた斬る』を発行。

10/17
東京高裁(第4民事部、中島恒裁判長)で、宮本邸電話盗聴事件裁判控訴審の第1回口頭弁論。

10/22
【学会】戸田記念墓地公園内で『創価学会特別重宝展』を開催。

10/31
【学会】名誉会長、東京女子医大病院に入院。



『 ’85年10月31日、池田氏は東京女子医大病院に入院した。最終的に創価学会は11月6日になって「風邪と疲れのため」と入院した事実を認めたが、当初は東京・新宿区内にある東京女子医大病院に詰めかけた報道陣に対し、事実を否定し続けたのである。
 このため、マスコミは、創価学会の情報統制にてんてこ舞いさせられたのだ。
 同様に、84年に池田氏の次男城久氏が29歳の若さで急逝した際にも、創価学会は池田城久氏の死去の報を1日公表しなかったため、事実確認のために報道陣は右往左往させられた。』
(週刊実話2003年1月23日号)

11/??
【学会】東京の組織を衆議院の選挙区割りに改編。
第1総合本部(新宿、港、千代田)……衆院東京1区
第2総合本部(大田、品川、大島、三宅島)……衆院東京2区
…………
第11総合本部……衆院東京11区

11/??
公明党、所属の地方議員3500余名を動員して、全国の公・市立の小・中学校3万6020校の校長、小学校五年一組の担任教師、中学校二年一組の担任教師、小学校六年一組・中学校三年一組の父母各一組に直接面接、『学校教育に関する意識調査』を実施する。
※設問内容が中曽根流の「教育改革」を進めようとする臨教審の答申に沿うもの、との批判があった。

11/10
【学会】名誉会長、東京女子医大病院を退院。

11/12
後藤組の系列構成員・山中清史(28歳)、東京・信濃町の創価文化会館敷地内で空に向け2発の銃弾を発射。警備の学会員に捕り押えられる。駆けつけた四谷警察署員に逮捕された山中は「学会の問題で頭に来ていたので脅しに撃った」と語る。
発射された銃弾で時計が壊れた。



『また、60年の11月12日には、創価学会本部横にある創価文化会館の3階外壁にビストル2発が撃ち込まれるという事件が起きている。』
(週刊実話1997年11月20日号)



『85年11月には学会本部の文化会館に拳銃2発が撃ち込まれ、後藤組組員が警視庁に現行犯逮捕された。
 藤井が後藤と接触するようになったのはその前後からだ。元学会幹部の岡本勇(仮名)が証言する。
「藤井さんが後藤組長と接触する直接のきっかけは、学会本部が右翼・暴力団の街宣車に悩まされたことでした。それを抑えるため藤井さんは元警視総監らの仲介で後藤組長に会い、彼とのパイプをつくった。それ以来、藤井さんは学会の裏の仕事を引き受けるようにたり、『醜の御盾(しこのみたて)』、つまり学会の裏社会に対する防波堤として力をつけていったんです」
 どうやらこじれかけた学会と後藤組の関係は藤井の登場でいったん修復されたらしい。私は富士宮市で後藤組の内情をよく知る男にあった。種々の制約から名前や肩書きは明らかにできないが、彼が密会ビデオ事件の真相を知る立場にいるのは間違いたい。
「密会ピデオは本当に存在したのか」
と聞くと、男は言った。
「間違いなくあったよ。もしビデオが単なる噂にすぎたいものだったら、あれほど藤井が泡を食うはずがたいじゃないか」
 後藤・藤井の関係はいつから?
「今から十数年前のことだ。墓苑の問題で藤井が(後藤に)会いに来た。素人はヤクザをただで使うから注意しなくちゃいけたいんだ。約束よりたくさん持ってくれば何の問題もたいのだが、ヤクザを使ったのに後は知らないというのが多いからな。そういうことがあるから爆弾が破裂したりするんだよ。誰がやったとは言わないが」
「密会ビデオ」騒ぎが起きてから2年近くたった97年10月29日午前2時すぎ、東京都新宿区にある藤井宅の南隣の家の鉄製門扉が爆破された。』
(魚住 昭『野中広務「権力二十年戦争」』最終回『現代』2004年2月号)



藤井富雄と後藤忠政を繋いだ人物について
(平成16年3月2日)

差出人:不明
論談様。
月刊「現代」2月号の魚住昭のレポートで改めて蒸し返されていた「公明党の藤井富雄と山口組の後藤忠政の腐れ縁」の事ですが、私の知ってる情報を提供しましょう。
記事の中で「藤井富雄は元警視総監の仲介で後藤と会った」とありますが、これは事実と少し違います。
 仲介したのは、兵庫県知事や山口組や警察庁幹部や政党幹部に人脈を持つ神戸のフィクサー M ・ T で、藤井と後藤を引き会わせたのは学会本部に拳銃が撃ち込まれた直後の昭和60年暮れ。
 このフィクサーは去年死んだ元総監とも親密だったので「元警視総監の仲介云々」という誤報になったと推測される。
 藤井と後藤の関係は現在も続いていると思います。
(論談:目安箱http://www.rondan.co.jp/html/mail/0403/040302-5.html)

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学会の歴史(昭和60年) (1)

この年は、フランスからニセ仏教宗派のセクトであると認定され、後藤組から脅され、世襲はしないという発言のある年です。

〃電話盗聴事件の判決は、創立55周年を迎えた創価学会の最大の魔である〃とのことですが、宮本邸電話盗聴事件の公式見解を聞きたいものです。「昔の事件」では片付けられません。つい最近も、ドコモの通話記録を探った実績があるのですから。

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1985(昭和60)年(1)

01/??
『プレジデント』2月号、藤原弘達(司会)、俵孝太郎、内藤国夫の座談会記事。
「内藤結局、今の日本の政治で一番現実性のある危険な芽は、創価学会が政権に絡むということでしょう」
「内藤僕は池田大作は〃怪人二百面相〃だと言うんです。今、世間を騒がしている〃かい人21面相〃どころじゃない。池田大作の究極の目的は、天下取り、権力を握ることですが、そのためには、どんなことをしてもいいわけ……」
「藤原……創価学会では、国民的コンセンサスのべースになんかならない。その点は、これまでも何度も指摘しているところなんだが、日蓮正宗―創価学会は、ホメイニを戴くイスラム教シーア派のようなものだと受け取るほかあるまい。アラブ的紛争を日本に持ち込む危険性のほうが大ありさ……」
「俵……僕は、モグラのように公明党・創価学会が尻尾を出すたびにポソポソ叩いていればこっちも年をとるけど、敵も年をとる。結局たいしたことにならないで、まあ日本国は安泰だろうと思うんだけどね」

01/01
『新雑誌X』2月号、丸山実の『新・山崎恐喝問題とマスコミ山崎正友への論告求刑を考える』を掲載。

01/25
熱烈な創価学会員だったSが覚醒剤台湾ルートの主犯として神奈川県警に逮捕され、家族が学会に納めた財務金に疑惑がもたれる。

01/26
【学会】名誉会長、SGI発足10周年記念提言。米ソの核軍拡競争をストップさせる契機となる米ソ首脳会談の開催。『アジア・太平洋時代』の文明史的意義について考察。

03/??
第6回の中国青年代表団が訪日。胡錦濤団長ら、聖教新聞社で池田名誉会長と懇談。

03/01
『新雑誌X』4月号、丸山実の『新・山崎正友恐喝問題とマスコミ(完)〃大風呂敷的〃ハッタリに弱いマスコミ』を掲載。

03/26
東京地裁で山友恐喝裁判の判決公判。被告・山崎正友に懲役3年。山崎はただちに控訴。



『昭和60年3月26日、3年10カ月、75回に及ぶ東京地方裁判所での審理の結果、男に「懲役3年」の実刑判決が下された。
「被告人自身の捜査段階における供述と対比しても、被告人の前記公判供述は信用できない」
「被告人の供述は、他の証拠と対比すると信用することができない」
「この点に関する被告人の供述は、信用できない」
「はなはだしく不自然であると考えざるを得ない」
「事実と明らかに矛盾するため、これを糊塗すべく、虚構の事実を述べているものと認められる」
「被告人の前記公判供述は、これら横面調書等と対比しても、信用し難い」
「虚偽の弁解を作出したものと認められる」
「強引に自分の主張に結びつけて、はなはだ不自然であってとうてい信用できない」
「多大の疑問を抱かざるを得ず、この点においても、被告人の主張は不自然と言わざるを得ない」
「偶々(たまたま)手許にあった証拠物を利用して虚構の弁解を作出している以上、被告人の供述には全く虚構と認められるところが多い」
「被告人の供述は容易に信用することができない」
「被告人の供述は、不自然というほかはなく、前記証拠と対比すると信用できない」
「被告人の供述に右のような矛盾が生ずるのは、その供述が虚構を重ねたものであることに起因すると認められる」
判決文は、男が裁判において嘘に嘘を重ね続けたことを綿々と綴っている。』
(北林芳典『反逆の裏にある顔』P10?11)

04/??
【学会】山形池田平和会館落成。

04/??
【学会】北九州池田文化会館落成。

04/??
【宗門】大石寺に散弾銃が撃ち込まれる。



『「宮士宮に勢力をおく後藤組は、墓苑建設の際、用地買取や周辺住民の説得などに協力したといわれています。が、この蜜月間係は、’80年代に入り、崩壊する。その原因は、学会側が、後藤組に対して報酬の支払いを渋ったからといわれています」(富士宮市市議会議員の一人)
’85年4月には日蓮正宗総本山・大石寺に散弾銃が撃ち込まれ、同11月には東京・信濃町の創価学会本部の文化会館に短銃2発が撃ち込まれている。11月の事件では、後藤組組員が現行犯逮捕されたのだった。
「学会側は、この事件に慌てて後藤組に接触した」(学会関係者)という。』
(週刊現代97年11月22日号)

04/??
フランス国民会議、発表した文書『フランスの宗派(セクト)』の中で、フランスで社会問題を引き起こしているニセ宗教団体として、統一教会と創価学会を挙げる。文書は、「このニセ仏教宗派の特徴は、フランス仏教会からつねにきびしい非難を浴びている、という点にある」とし、フランス仏教会会長が82年12/25に池田名誉会長に宛てた書簡を引用している。

04/02
央忠邦著『池田大作の軌跡』発刊。
将来の学会の後継者に息子さんをするという週刊誌の記事を読んだことがあります。私は学会は世襲制はしないと以前から聞いていましたが、一体どうなんでしょう。
 池田 学会は永久に世襲制はとりません。これは初代、二代、そして三代の私を含めた不文律のようなものになっている。私から北條第四代会長へもそうでした。いわんや会則のもとでは絶対にありえないことです。念のために申し上げれば、長男は高等学校の教員、次男は大学の職員です。三男坊はまだ大学生です。いずれにせよ、まったく論拠のない推測記事でしょう。』
との名誉会長の言葉を掲載。
※著者の央忠邦は当時・朝日新聞記者。



『だが、その長男博正は、組織的にはなんらの実績もなかったにも関わらず、今や副総合青年部長、SGI会長秘書、創価大学ロス分校主事、創価学園理事、そして池田大作の名代として南米各国をまわり勲章、称号を受け、大統領と会談し、会員を指導している。三男尊弘もまた、ヨーロッパ、アメリカ、中国に随行、会合では池田の隣席に座る。世襲への布石は着実に進行している。ちなみに戸田第二代会長の子息は学会の役職はもっていない』
(90年7月16日継命新聞社『グラフティ創価学会の現実RART3』)

04/22
東京地裁で宮本邸電話盗聴事件裁判の判決公判。学会側敗訴。
学会側の組織的犯行を認めて、前会長・北條浩ら4被告に総額100万円の慰謝料支払いを命じる(第一審)。



『昭和60年4月22日、東京地方裁判所民事第12部は、北林芳典以外の被告の犯行を認定し、すでに、北条浩は、昭和57年7月に死去していたから、遺族達に対して、合計金百万円、山崎正友、広野輝夫、竹岡誠治には、各百万円の支払いを命ずる判決を言い渡した。
 私を除き、創価学会側の被告はただちに控訴したが、控訴審においても、昭和63年4月26日、控訴棄却の判決が下された。
 創価学会側の被告は、最高裁判所に上告したが、途中で上告を取り下げ、損害賠償金を一方的に供託した。
 これにより、一審控訴審判決は確定し、宮本邸盗聴事件が、北条浩の指示による創価学会の組織的犯行であることが、公式に認定されたわけである。
 創価学会側被告は、自らこれを認めて、損害賠償金を自発的に支払った。
 ちなみに、私は、心からの謝罪と贖罪(しょくざい)の意を認められ、宮本氏側から、損害金の支払いを免除された。』
(山崎正友自由の砦2002年1月10日号)

(?)
【学会】〃電話盗聴事件の判決は、創立55周年を迎えた創価学会の最大の魔である〃との非公式な見解をくちコミで流す。

05/??
「全国砂利石材転用船組合連合会」(大阪市北区)、自家用船から営業船への転用をめぐって、全自連の顧問だった田代富士男参議院議員(公明党)に、利益誘導のための営業制限の撤廃を求める国会質問趣意書を提出するように依頼し、謝礼として1000万円を渡す。
91年11月21日大阪地裁で結審、92年有罪が確定した。

05/初旬
【学会】宮本邸電話盗聴事件裁判につき控訴。(控訴しなかった山崎正友、北林芳典については刑が確定。)

05/12
三重県四日市市の創価学会の大ブロック長が、知人の婦人学会員宅へ強盗に押し入る。逃げようとしていた婦人学会員は、二階から落ちて死亡。

05/20
【学会】聖教新聞社、全国一律に最終版の配布が実施され、速報体制が整う。

06/??
公明新聞、81年那覇市架空住民票移動事件の調査結果を掲載。架空転入者のうち創価学会員は2名だけで、しかもその2名も保守系候補を支援するためだったと主張、これにより「一部政党のデッチ上げ体質が指弾されるにとどまらず、これまでの一部マスコミを含めた公明党に対するいわれなき住民票移動呼ばわりに完全に終止符が打たれた」とする。

06/17
田代富士男議員、内閣に対し自家用砂利船転用についての質問状を提出。

06/18
正信会機関紙『継命』と「中央区選出都議選の公正を見守る有志の集い」
(代表=佐藤芳行)、都選管に創価学会員による架空住民票移動の疑惑を告発。(創価学会関係者とおぼしき架空転入者7件・10名、他に疑惑が持たれるもの13名)

06/??
公明新聞、『継命』紙等の告発を「またもデマだった!」とし、独自調査の結果を掲載する。

06/??
週刊サンケイ7月4日号発売。都議選応援で3週連続上京している中国地方の学会員の談話を掲載。


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学会の歴史(昭和59年) (2)

昭和59年終了。嵐の前の静けさというやつでしょうか。
翌年からかなり荒れそうです。

(ここから)---------------------------------------------

1984(昭和59)年(2)

10/16
宮本顕治共産党議長、第9回中央委員会総会で創共協定に触れ、「協定そのものは世界平和、民衆福祉のため、双方が反共主義をとらず、社会のどんな段階でも信教の自由を尊重するという、まったく正当で立派なものであった」「しかし発表直後からこれほど相手側から不誠実に扱われた協定はないといっていい」「したがって協定は完全に死文化され、辱められたものである」「死文は死文として葬り去るというのが歴史への誠実であると考えている」等と述べる。

10/27
二階堂進、自民党実力者と執行部の会談の席で、自民党総裁選にからみ、
「公明党の竹入委員長から何回も連絡があった。『池田大作名誉会長を含め全創価学会、全公明党を代表して』といって今朝も電話があり『現在の政治の状況を憂い、不満を持っている』といってきた。現在のままで難しい世界情勢を乗り切れるのか、現状に対する認識を、るる説明され、何とか打開できないのか、このままでは責任回避ではないのか、といわれた。『竹入個人ではなく、全創価学会、全公明党の意見である』ということだった」と明かす。
(朝日新聞政治部『田中支配』)

11/??
龍年光公明党都議会議員、財団法人『土と人間の蘇生の会』(品川区中延1丁目)を設立。



『財団法人設立には、確かに億単位の金が必要だった。だが、竜氏は、学会組織にも党組織にも頼らず、昭和59年11月、独力で法人設立にこぎつけた。法人のパンフにも、「公明党や創価学会に一切関係なく独自の立場で設立」と明記されてある』
(内藤国夫週刊文春91年2月28日号)

12/04
公明党第22回党大会。
竹入委員長、閉会にあたりワイシャツ姿で壇上に立ち、「政権獲得をめざしてガンバロー、エイエイオーッ」と勝どきの音頭をとる。



委員長あいさつ
大会冒頭、あいさつに立った竹入委員長はまず、結党以来最高の党勢で20周年を迎えた喜びを述べ、公明党が躍進すれば「確実に政治改革は前進し、国民の期待する政治が実現する」と力説し、そのための論議にポイントを置くべきだと大会を位置づけた。
 そのうえで、先の自民党総裁選にさいして公明・民社両党が二階堂擁立で動いたことについて、「中曽根政治が変わり、特定人物による政治支配の構図が打ち破られるというのであれば、それは国民にとっても大変に歓迎すべきである」、「中曽根氏と二階堂氏の二人を冷静に比較した場合、どうみても二階堂氏の方が〃よりまし〃な考えの政治家のようであり、政治改革の突破口となるであろうとの見通しから、いわゆる外野席からハンカチを振った」と改めて説明した。
 また、二階堂氏が灰色高官であることについては、その是非をめぐって評価が分かれていることを認めつつも、
(1)保守政権の思いのままの政治がつづいて国民生活がおびやかされている、
(2)政治改革への風穴を開けることに臆するべきでない、
(3)現実を理想に近づけるために、今回の事態で外から声援を送ったのは間違いでも徒労でもなかった、
(4)政治改革という収支決算では大いなるプラスであり、公明党のイメージも何ら損なわれていない
――と述べて理解を求めた。
 今後の連合問題への基本姿勢については、「現段階においては大枠社公民の『基調』や『静観の姿勢』を崩す必要はまったくない」と述べる一方で、11月1日の拡大中執委で「つぎのチャンスでは上着を脱いでやる」と発言したことを引用しながら、「そのときには党内のしかるべき正式機関での論議を詰めて、政治改革に正面切って突き進むという決意」だと強調して、連合政権実現への意欲を示した。
 また、社会党からよびかけのあった社公政権協議の再開については、これに応じる用意のあることを表明したが、安全保障や原発問題への対応などでへだたりの大きい現状では、実際には政権構想での社公民の結集は困難だとの判断を示した(あいさつ全文は、『公明新聞』84年12月5日付参照)。

総括質疑
党大会提出五議案の趣旨説明後の総括質疑は政治路線や連合問題をめぐっておこなわれたが、とりわけ二階堂擁立構想に集中した。
 この件について矢野書記長は、「新たな政治状況の変化のきざしとするにふさわしいものだった」との見解を示しつつも、「意図したものではなく、突発的なものであった」ことを強調した。
 竹入委員長も、政治転換への強い決意を示しながら、「社・公・民になるか、自民党との連合かは状況により分からない」と述べ、二通りの選択があるとの考えを示した。
 また、連合の前提である政策問題について、竹入委員長は「基本政策を度外視して連立・連合に走ることはない」と、野合的連合を明確に否定した。とくに憲法問題では連合の各勢力が絶対に改憲はしないことが前提になると強調したほか、
(1)政治倫理確立のための制度的保障、
(2)装備費の削減もふくめ防衛費の1%枠厳守、
(3)住民の意見を尊重しながら原発の推進
――など政策の基本部分での一致を条件とする考えを示した(「総括質疑」の要旨は『公明新聞』84年12月6日付)。

役員
第22回全国大会で選出・承認された本部役員および同大会終了後開かれた中央執行委員会で決定した副書記長、各局長の氏名はつぎのとおり。
▽中央執行委員長竹入義勝、▽中央執行副委員長二宮文造、浅井美幸、多田省吾、鈴木一弘(新)、
▽書記長矢野絢也、▽副書記長石田幸四郎、長田武士(新)、市川雄一、大久保直彦、
▽総務局長笠間肇(新)、
▽組織局長伏木和雄(新)、▽議会局長大川清幸(新)、▽宣伝局長矢追秀彦▽広報局長坂井弘一、▽機関紙局長土師進(新)、
▽青年局長鶴岡洋(新・非中執)、▽婦人局長渡部通子(非中執)、
▽国際局長黒柳明、▽労働局長黒柳明(兼・新)、▽文化局長二見伸明(新)、▽教育局長伏木和雄(兼・新)、▽中小企業局長近江巳記夫(非中執)▽農林水産局長藤原房雄、▽国民生活局長刈田貞子(新・非中執)、▽政策審議会長正木良明、▽財務委員長、二宮文造(兼)、
▽国会対策委員長権藤恒夫、▽選挙対策委員長大野潔、▽組織対策委員長三木忠雄、▽国民運動本部長峯山昭範(新)、▽公害対策本部長塩出啓典(新)、
▽中央執行委員石田幸四郎、田代富士男、渡部一郎、藤井富雄、藤原行正(以上、中央執行委員29人)

<中央統制委員会>
▽中央統制委員長原田立(新)、▽中央統制副委員長鈴切康雄(新)、▽中央統制委員中野明(新)、西中清(新)、貝沼次郎(新)。
<会計監査委員会>
▽会計監査委員岡本富夫(新)、中野鉄造(新)、有島重武(新)
(法政大学大原社会問題研究所:編著『日本労働年鑑第56集1986年版』
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/56/rn1986-400.html)



金丸から受け取った500万円
私は昭和48年から51年にかけて前尾繁三郎議長の秘書となり、ロッキード事件など難問に対処するが、この時、公明党は中道政治を主張し、議長の権威のために尽力してくれた。
 51年、わが国議会史上初めてとなる両院議長裁定により、ロッキード事件で空転した国会を正常化できたのも公明党のお陰だ。正常化したこの国会の唯一の成果は、核拡散防止条約を批准承認させたことだった。実はこの成立には、もう一つの秘史があるのだが、詳細については、私の近著『昭和天皇の「極秘指令」』(小社刊)に譲ろう。
 ここでは、その後の公明党と私の関係でごく代表的な事例を紹介する。
 昭和58年、総務課長となったころ私と連絡を緊密にしていた公明党の議員は、59年に国対委員長となった権藤恒夫さんだった。国会運営に関してはまったくの素人だった権藤さんとは、毎日のように顔をあわせたり、電話で話をしたりしていた。
 その権藤さんが国対委員長に就任したとき、自民党国対委員長の金丸信さんから「一度食事でも」という話が持ち込まれた。金丸さんは公明党の国対委員長に挨拶をしておきたかったのだろう。だが、権藤さんはこの申し出を断った。
 誘いを断ったのは、金丸さんが現金を持ってくることが想像できたからだった。当時はそうした裏ガネが横行している時代だった。権藤さんは、2度目の申し出も断った。
 そして3度日の申し出があったとき、私に相談があった。当の本人は「もしも二人で対面して、そこで金丸さんにカネを差し出されたら、断るわけにいかんじゃないか」と応じるつもりはない。
 私は、「カネを出されたらもらってくればいい」と言って次のように話した。
「金丸さんの奥さんは陶器に凝っている。九州が地元のあんたなら、唐津焼でも伊万里焼でも安く手に入れることができるだろう。もしも300万円渡されたら、三越本店あたりで400万?500万円で売っているような作品を、地元で安く買ってきてお返しすればいい」
 これを聞いて権藤さんは、ようやく金丸さんと会う決心をした。案の定、金丸さんは権藤さんにカネを手渡した。その額500万円。そのうち300万?400万円くらいを使って焼き物を金丸さんに送り返した。
 金丸さんは、「お返ししてきた野党の議員はこれまで一人もおらん」と大変驚いていたが、それでも権藤さんの手元には200万円近い現金が残った。このカネは親しい新聞記者を集めて向島で宴会を開く軍資金に化けてしまった。
(平野貞夫『公明党「汚れた裏面史」全真相』『現代』2004年5月号)

12/16
宮本邸電話盗聴事件裁判、結審する。

12/28
創共協定、期限の10年目を迎える。(双方とも協定延長の意思なし。)

(?)
公明党衆院議員・池田克也、リクルート社社長室長・辰巳雅朗から政治資金の提供を受ける。(のち、リクルート事件として発覚。)

(?)
サンケイ出版、グループS著『小説聖教新聞 内部告発実録ノベル』を発刊。

(?)
福岡県の政財界に影響力を持つ暴力団『双葉会』大島会長主催のゴルフコ ンペの最中、対立する暴力団組員に大島会長が射殺される。
このコンペには公明党県議・福岡市議・久留米市議らが揃って参加し、なおかつ公明党中央執行委員で労働局長の権藤代議士も招待を受けて出席していた。

(ここまで)---------------------------------------------
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